調子悪くてあたりまえ

「調子悪くてあたりまえ」

原キョウコ


 元気がいちばん。確かにそうなのだけれどね。この1、2月というもの、わたしはずーっと風邪をひきっぱなしで少しよくなったり、また具合が悪くなったりの繰り返しだった。朝起きてもボーッとしたままで、からだは起きているのに動くに気力がない。やっとのことで出掛けても、あたまがちっともはたらかない。そして帰って来ても、また動けなくなるという具合だった。いつもなら、内向している熱を熱いお風呂で発散させたり、ダンスのセッションをしている間にいつのまにかさっぱりしていたりするのに、そんなこともなかった。ひたすら、眠く、だるく、気力なし。そのうちにこれは何かおかしいのではと思い始め、こころもうつうつとしてきた。過去の記憶を掘り返して、深いところにだんだんと入り込んでゆく。からだもこころもまさに相乗効果でもつれあいながら、深みにはまって行く、という案配だった。
 そんなとき、昔一緒にダンスを踊っていた友達が、駅のフォームで遠くを見ながら「そうなんだよなあ」とつぶやいていたことを思い出した。彼女の視線の先には、近田春夫の新譜の「調子悪くて当たり前」というタイトルのビルボードがあった。「なんか安心した」たぶん、自分の感情をあまり出さないひとだったので、それがとても印象的だった。そうだよなあ、とわたしもつぶやいた。ひとはわたしがいつでもとても元気だと思っているらしく、「大丈夫?」とか「元気ないね」と言ってきたりした。そのたびに「そうなんです」と答えていたが、そのうちめんどくさくなった。
 そのころ、わたしの夢もいつになく激しくて、深いところですごいエネルギーが動いているのも感じていたので、これは必然的なプロセスであると感じていたのだ。そんな状態も他人から見ればただの元気のない状態だったりする。ましてや、職業的に元気がなければいけないと思い込んでいるひともいるのだ、驚いたことに。
 3月になり、尊敬するダンサーの柴崎正道氏のワークショップで、久々にからだが喜ぶという感じを味わい、師匠である岩下徹氏のワークショップに行き、自分のからだがここに立っているという状態を感じたりして、また自分のいる今、ここに戻ることができた。けれどこの3カ月の状態はとても貴重だったと思っている。
 元気がいちばん。けれど、時に自分の深いところに気づき(それはたいていつらいことだけれど)、クライアントと実はシンクロしている問題に突き当たったりする。それを乗り越えたとて劇的に何かが変化する訳でもない。ただ、少しずつ、ほんの少しずつ、動いてゆく。「結局いったりきたりなんだよね」と親しい女友達と電話でしみじみ語り合ったのだった。