甘い香りに包まれて  自由学舎主宰 下田秀明

   秋の一日、紅葉の中のジョギングを目標に、富士五湖の一つ西湖で合宿を行いました。湖畔を走るグループと、富士山の見える丘に登り青木が原樹海を歩くグループに分かれての行動です。『樹海の中は道に迷ってはぐれると、そこから出られなくなって死んじゃうから注意だよ』と最初に言ったので、35名の大グループも全員必死になって僕についてきました。途中、大きな大きな十数本が束になったような桂の木に出会います。なんともいえない甘い素敵な香りに一団は包まれました。紅葉のとき特有の芳香です。樹海の中という恐ろしいほどの大自然の中で天国にいるような香りに包まれたことに、全員大感動です。ひとつ山を乗り越えた後のこと、からだはくたくたになっています。そしてとても不思議な気持ちを味わったのです。それぞれひとりひとりが、人間のからだも自然の一部、いや、自然そのものであることをからだと心の深〜いところで確認していたように感じられたのです。
 森の中を3時間くらい歩きました。歩いたからこそ、こんなに素敵な場所と出会うことができました。そう遠くはないところに車の通るアスファルトの道もあります。が、車に乗っていてはこの地点に立てないのです。自分の足で歩いていかないかぎり、この甘い香りをかぐことは出来ないのです。車に乗ってどこか知らない遠いところに行くことの好きだった頃、自分の足で歩くことがこんなに楽しく面白いことだとは、(カラダは分かっていたのでしょうが、)自分の脳みそはまだ気づいていませんでした。三浦半島へは車で何十回も行きました。そしてつい最近になって、合宿の下見や歩くコース創りのために津々浦々を歩きました。なんて楽しいんだろう。なんて面白いんだろう。樹木や草花、民家、道、風景、におい、お店、車に乗っていては絶対に気がつかない見ることの出来ない風景や全ての生命体がいっぱいいっぱいあるのです。『ゆっくりと歩く』ことは、その場所を知るためのもっとも大切な手段の一つであることを実感したのでした。
 合宿では、みんな、自分の足で長い距離を歩くこと走ることができました。そして、自分のからだに対する信頼がひとつ増えました。その信頼は普段の生活の中にもきっと現れてくるでしょう。ちょっとそこまでという距離も歩かないで車に頼りがちな生活は自然に遠のくでしょう。自分の足で歩いた風景は忘れません。自分の身体を使ってやったことは、いつまでもからだのどこかが覚えています。『危ない、ケガをする、殺人の道具になる』という理由で、ナイフは子どもたちから遠ざけられました。指先や手の微妙な感覚的な動作は小さい頃のさまざまな生活や遊びの中から培うべきものなのに。ゲームや携帯メールの登場で、若者たちの親指は驚くほど早く動きます。が、身体能力・身体感覚ひいては人間全体の総合力・生活力が減少傾向にあることは否定できません。人間が、自然から遠く離れた都市生活をおくる以上、脳による思考だけが先行していくことは避けられません。そして人間のからだが自然そのものであることを忘れてしまうことも残念ながら避けられないようです。その結果として、たくさんの肉体的・精神的な病が生じてきてしまいます。そのことに早く気づいて、私たちのカラダの隅々までの筋肉や全細胞を使って、カラダを動かすことを億劫がらないで、生きていきたいものです。

 

 

 

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