現代の寺小屋 自由学舎  自由学舎主宰 下田秀明


  僕は、中学生のころに今のような自由学舎を作ろうと思った。発想の源は、江戸時代の『寺子屋』と吉田松陰が作った松下村塾。そしてそうしたことを考えなければならなかった背景には学校の授業がある。極少数の先生の授業以外はほとんど聞いていなかった。寝ていると、そのままの状態で頭を机にぶつけられて鼻血ドバァっとなるから、聞いているふりをして別のことをやっていた。一人一人脳みその回路も違う、生まれ育てられた背景やそれによって培われた考え方も、趣味や志向も違う。教科書に書いてあることや使い古した教師ノートを書き写すだけの授業なら、一人でやったほうがはるかに効率的。江戸時代の寺子屋のほうが楽しそうで、勉強嫌いも作らないな、とそう思った。松下村塾も基本的には個人指導で行われていたようだ。そうした学生時代のもろもろの感覚が今の自由学舎の授業形態を作っているように思える。
  自由学舎に初めて来られた父母の方や営業に来られた人はビックリされることが多い。小学校に上がったばかりの小さな子から大学受験を目指す大きな生徒が隣り合わせで楽しそうに勉強しているのだ。そうだ、まさに江戸時代の寺子屋そのものなのだ。寺子屋の風景画を見ると、いかにも楽しそうではないか。こうやって勉強が出来たら自ら学習することを全く厭うこともない。自分に大切なこと学びたいことを進んで学べるようになることが教育の目標なら、このような授業形態はもっともっと普及していくはずだと思うが、一人一人を相手にするという非効率な感覚があるが故にそうならないのだろう。
  子どもたちの教育は、今後の社会を支える上でもっとも大きな柱である。子どもたちが自立して、自分の考えや哲学を持って生きていけるようにすることが教育の本質である。報道に現れる哀しい出来事の数々を思いながら、これからの日本が、そして世界が希望のある未来へ進むためには、打算のない心底からの教育が必要だと、つくづく感じる。

 

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