再び『学ぶ』ということ  自由学舎主宰 下田秀明


 知識がネット上に溢れている今、再び「学ぶ」ということを考えてみよう。

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「学ぶということは、覚えこむこととは全くちがうことだ。
学ぶとは、いつでも、何かがはじまることで、
終ることのない過程に一歩ふみこむことである。
一片の知識が学習の成果であるならば、
それは何も学ばないでしまったことではないか。
学んだことの証しは、ただ一つで、何かがかわることである」
(林竹二『学ぶということ』国土社、95頁)。
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林竹ニさんの文には、自由学舎の草創期にずいぶんと出会いました。
これを題材にして、自由学舎に集まった先生たちとでいろいろ
議論をしていたことを思い出します。

学ぶことの意味は、当時と随分変わってきました。
知識に関しては、ほとんど学ぶ必要がなくなってしまって、
調べることで、足りてしまうのではないかと思うほどです。
苦労して覚えた一片の知識と、ホームページからいとも簡単に取り出せる知識が同価値に扱われることさえあるのです。

そうすると、学ぶ、ということは何なのか?
職人の世界がそうであったように
師匠の技を見て、まねをすることなのではないでしょうか。
学ぶ、の語源が、『まねぶ』であった、とする考えもありますが、
まさに、まねをする、ことが学ぶことの基本にあるような気がします。

中学の頃、ラジオでビートルズを聴いて、ギターを始めました。
そして数年間の間、ずっとビートルズの曲のコピーをしました。
楽譜などほとんど出回っていない時代なので、レコードを買ってきて
聴いてはこれだ、この音だ、あ、ちょっと違う、なんか違う、と、
起きている間中、レコード聴いてはギターに触れていました。
歌い方も節回しも声の出し方も、すべて僕の師匠は、ジョン・レノンです。
ジョンのまねをしながら音楽の技を覚えました。
次第に自分の技が上達し、他の音楽家の素敵な音に出会ったときに、
割とすんなりと自分の中に吸収できるようになりました。
そうやってとことん自分の気に入った音を出せるようにまね(コピー)をしているうちに、いつの日か知らず知らずのうちに、自分の音、自分にしか出せない音が分かるようになりました。

40歳台半ばになって、生徒の親からの誘いでテニスを始めました。
テニスがこんなに面白いものだとはつゆ知らなかった自分が、突然はまりました。やればやるほど楽しくなり、テニスが好きになり、もっともっと上手になりたいと今も日々学んでいます。
けれど、テニスのボールの“本当の打ち方”なんてどこにも書いていないのです。僕にとっては、フェデラーやナダルが打ち方の師匠で、
その手のふり方、カラダの動かし方、目のつけどころ、などなど、
全てが僕の学ぶ材料になっています。
良く見て、そして考えて、ああこうしているんだと納得しても、自分のカラダはそういうふうに動いてはくれません。でも、そのフォームを頭に描きながら、イメージしながら、毎日毎日、自分のカラダを動かし練習しています。

そして、林竹ニさんのいう学んだ証に気づくのは、
ギターを奏でているうちに、ふっと自分の音が響いているとき、
そして、まさに、テニスで良い球を打てるようになって、
これだぁと思った時(変った時)なのです。

学び、自らが変り、時代を変える。
一人一人の小さな学びが、時代を変える大きな潮流を生み出すことさえあります。人間の業を変える力を、学ぶことで持てるなら、
それはそれは、非常に幸せなことだと感じます。

ただ、今の子どもたちをみていると、どうも学ぶ以前の問題のほうが大きいと思われるのです。だから、自由学舎では、学ぶ前の心のあり方に重点を置いて子どもたちをみています。

「素直であれ!邪心なく透明であれ!」
曇のない眼(心)とカラダで自分の周りを見渡してみると
そこから実に多くのことを学べるのです。
自分の中に障壁がなければ、大解放の自分を作れれば、
自分の周りにいる人や自然、全てのものが
自分の師匠となりうるのです。
その学ぶことの楽しさを子どもたちに伝えたい。

遊べ!学べ!自然とともに!

 

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