学び』への原動力  自由学舎主宰 下田秀明


  昨秋日本人科学者たちがノーベル賞を受賞した。すばらしい。本当に嬉しく思っ た。そして彼らが、小さい頃から一貫して勉強のエリートコースを歩いてきたわけで はないことを知り、妙に納得するものがあった。

  今の日本の教育について尋ねられた下村脩(おさむ)さんは、『子どもたちには興味をもったことをどんどんやらせてあげて。やめさせてはダメです』と語り、大人の価値観を押し付け干渉したりすることを戒めた。また、益川敏英さんは『本来みんなが持っている好奇心が、今の受験体制によってすさんでいる・・・教育に悪影響・・・』との趣旨の発言をし、『大学入試センター試験のような選択式テストでは真の学力は測れない、学力を磨く意欲を無くす・・・家庭でも教育ママではなく教育結果ママになっている』と手厳しかった。

 確かに、学ぶ意味を問わず、短絡的に正解のみを求める子どもたちが増加しつつあることは否定できないようだ。もちろんこのことは、今の子どもたちに問題があるということではない。日本の社会全体を覆う空気(風潮)が、結果至上主義・成果主義に走るあまり、家庭の中にまでその嵐が吹き荒れているのだろうと思う。そしてその風はついに公の学校にまで吹き込んできた。新聞紙上で『公立小中学校の“学力公約”』という大見出しが踊った。「学力調査正答率95%」や「中3の60%英検3級合格」など進学塾の宣伝文句か?と疑うような文言が並んでいた。さすがにその後即座に、教師や生徒それぞれの立場から賛否両論が飛び交った。

 僕は思う。結果ではなくそれに至るプロセス(過程)が大切なのだと。結果は努力のプロセスに対する天からの授かりものだ。金メダルも銀も銅も、メダルを取れなかった人も、その舞台に至るプロセスが美しければ、同じように美しい。精一杯努力してメダルの取れなかった人がいるからこそ、金銀銅のメダルが輝いて見える。人それぞれにひとりひとりの人生や運命があり、そしてそれぞれに成功の度合や達成の違いがあるからこそ、それも含めての生き様であって、人の人生に対して今流行の『勝ち組』とか『負け組』とかを命名すべきものは何もない。

 緑色蛍光たんぱく質を見つけた下村さんは、自分の仕事でノーベル賞がもらえるとは考えてもいなかった。見つけたものを多くの人が使ってくれ、役に立ったから、この物質が有名になった、本当にラッキーだ!と語っていたことが印象的だ。興味あることに無欲に取り組んだことを天が祝福したのだと思う。

 英国に赴任した商社マンの子供が、現地の学校の理科のテストで100点ばかり取ってくるのに落第させられた、学校に問い合わせたら、『おたくの子供さんは点は取れるけれど、科学に対する興味がない、外に出て自然に接しても感動がない』とされ落第になったという。今の日本の教育のあり方に対する象徴的な出来事だと思う。点を取ることを一義に考えたら、学問はすさむ。興味を抱くこと、好奇心を持つことは、学びへの原動力として、最高に純粋なものである。その原動力を育み膨らませていくことに、公教育の場は集中するべきである。そうすれば必ず、結果はついてくる。興味や好奇心から始まる学びとその探求のプロセスは、必ずや何がしかの実りや成果へとつながっていくものだと思う。

 約束どおり勉強して宿題して、次のテストで30点上がらなかったら以後3ヶ月間の月謝はタダ、という大手塾の話が新聞に載った。公立学校の学習成果の公約と似たものを感じる。子どもたちが、人間として、生き物として、扱われていないような気がする。モノや商品のように扱われている。多くの人たちが生活の糧を得るために働いていた会社という組織も、今では売り買いの対象になり、単なるモノと化してしまったくらいだから、教育ビジネス界も同じように流れていくのだろうか。

 時々、小学校1年生が自由学舎にやってくる。新しい自分のノートに感激し、新しい教科書に目をクリクリと輝かせる。このワクワクするような学びへの興味には、僕はいつもいつも感動する。そしてこのすばらしい事実を僕はいつも思い出そうと思う。このキラリと光る子どもたちの好奇心が消えないように、続くように、そしてもっともっと膨らんでいくように、子どもたちに寄り添っていきたいと思う。

 

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