■外へ(悠紀への手紙)
そうゆう人々というのはどの道惨めなもので、それはお金が原因ということではなかった。「いいえ、それは出来ません」と言えないばかりに、その「いいえ」が彼らの臓腑で酸に変わり彼らの生命までをも破壊してしまったのである。 フランク・マッコート
僕は広い大地と、それまでとは違った人間関係を求めてアメリカへ旅だったのです。地平線しか見えない大地に立ってみたい。太陽は、大地は、空はどのように見えるのだろうか。そこでも自分は誰かだと言えるのだろうか。自分とはいったい誰で、何なんだろうか。
一億以上住むこの島国を出てみたい。父と母、また、祖父や叔母が与えてくれたこの自分を苦しめてやまない息の詰まるような人間関係から離れてみたい。どちらを向いても同じ髪の色、同じ目の色。同じ、同じ、同じ。同じ物がただ渋滞しているように見える社会。行き詰まる内に自分をどう扱っていいか解らなくなってきたのです。ただ夢だけが心の中で空回りし、満たされない大きな穴がぽっかりと空き、あちらにフワー、こちらにフワーと漂いながら生きていたのです。しまいには、走ってくる電車にふっと跳びこんでしまうのではないかとすら感じながら生きていました。自分の居場所がどこにも見つからなかったのです。
しかし、その時に、自分の将来がはっきりと見えていたわけではありませんでしたが、それまでの努力の集大成として羽田空港に立った時(そのころ国際線は羽田から出ていました)、ここが自分の新しい出発点だと感じたのは確かです。ジェット機が滑走路を離れ、轟音とともに空へ向かって加速する。自分の背中と臓腑に地球へ引き戻そうとする力を目一杯に感じながらの出発でした。
確かに、あの大きな海原を越したはずなのですが、記憶に残っている自分の胸の鼓動だけしか思い出せないのです。隣に座っていたのが男の人か女の人かすらも思い出せません。ただ、ドキ、ドキ、ドキとアメリカに向かっているのです。
乗り換えのためにシアトルに降り、国内線で大陸の約三分の二を横断する旅です。シアトル空港からはカスケード山脈が、青い空と降り注ぐ太陽とは対照的に真っ黒く空高くカスケードしているのです。回りを囲む緑とのコントラスト、吸い込まれていきそうな奥深さ。漂う雲。あまりの雄大さに我を忘れて見入ってしまいました。
そして、シアトルを後にし、黒いロキッキー山脈を越え、うす茶色のダコタを超し、 雲ひとつない快晴のミネアポリス空港に降り立ったのは8月の上旬の朝でした。
完全な一人旅で、日本から出るのも初めて,飛行機に乗るのも初めて、全くの初めてづくしで、ここまでの旅でも不安なことがいっぱいありましたが、この空港に降り立ったとき程不安を感じたことはありませんでした。それを求めて旅立ったはずなのに、回りを見渡して自分と同じ様子をした人など一人も居ません。居心地のいい色、音、臭い、形が全くないのです。
日本にいた時、あのアメリカ人独特の気楽さと旅慣れた図太さで、「空港とは目と鼻の先に住んでいるから、ミネアポリスに着いたら電話をして」と渡されていたのは友人の宣教師夫妻の電話番号だけでした。長女の結婚式をひかえ休暇を貰い彼らは僕よりも二月ほど前にアメリカに帰っていました。電話をどうやって架けていいものやら。間違った人に繋がったりしたらどうしようか。早口でまくし立てられたらと、考えれば考えるほど不安はつのっていくのです。どうにかなるだろうとダイヤルを回し、友人の声が電話口に出た時にやっと自分の体がアメリカの地に降り立った思いがしたのです。澄み渡った青い空から降り注ぐ太陽のまぶしさ、そして、回りの人々のおおらかな動きを感じられるようになったのは、荷物を貰い、友人の車を待つ間に一息入れることができた時でした。
僕はこの朝のことはおそらく生涯忘れることはないでしょう。ほんの昨日まで東京の人ごみとスモッグの中で暮らしていたのです。空港を出て車で走っている通りの街路樹に何とも言えない新鮮さを感じました。ビルに跳ね返ってピンピと撥ねる太陽ではなくて、柔らかく爽やかな太陽。そして、快活で華やかな空気。緑の木と陰の黒さのコントラストの素晴らしさが自分が確実に異なる時間と空間に来たことをまざまざと感じさせてくれました。
英語のシャワーを浴びながら車に揺られて行くのです。ハイウェイを降りると、ハリウッド映画でよく見たアベニューやストリートの風景を抜けて走るのです。大きな街路樹の整然とした並び。奇麗に刈られた芝のある家並み。あまりのおおらかな町の風景に、何をどのように感じていいものやら解らないまま眺めていました。
家に着くとみんなが「シャワー、シャワー」と叫んでいます。何かを話していると思うと「シャワー」、また一時たつと「シャワー」。しばらく真剣に話しているかと思うと、こんどは笑いながら「シャワー」。僕の方はというと、ゲストというよりも友達としてそこにいるので注意を払ってくれる様子もないのです。部屋をあてがわれてからは、自分の好きなようにしなさいぐらいの調子で、僕としては全く何をどうしていいものやら見当が付かないでいたのですが。「シャワー、シャワー」と言いながら、僕がここ2日間お風呂に入っていないから「シャワー」と言っている様子でもないのです。終には、訳がわからなくなって、「どうしてシャワー、シャワーと騒いでいるの」と聞いたら、今度は僕の質問を取り違えたらしくて、「あ、そーだ」とそこで始めて僕がそこにいることに気づいたかのように、「あなたシャワーを浴びなければいけないわね」とバスルームに連れて行かれる始末でした。シャワーから出てあらためて聞いてみたら、結婚のお祝い物を贈るパーテイの事だと知りました。あ、なるほどな、シャワーとは良く言ったものだと感心する一方で、この「シャワー」だけではなく生活の端々に彼らが使っている英語が解らない事に戸惑い、これからいったいどうなるのだろうとあらためて不安を覚えていました。
次の日が結婚式との事でしたが、そんなにせわしい様子はなく、各々の顔からは喜びがこぼれ出ていました。軽い昼食を取り、結婚式の打ち合わせが終わったところで、僕が来ているのだから全員で観光に行こうということになりました。州議会堂を取り巻く石畳を歩き、玄関に聳え立つ支柱の威厳に圧倒され、西洋はここから始まっているのだと痛感せずにはいられませんでした。塵一つなく、みすぼらしさのかけらも感じられないところです。広大な敷地が意志の力でなだめられ、人工的な威厳が切りはめられた石の角の角まで生きているところです。次に,セントポールの大きな教会を見に行きました。深い緑の丸い屋根、何度もテレビでは見たことのある教
会の姿です。中の荘厳さには、祈りで浄化された静けさがあり、外観の落ち着きには精神で鍛え上げられた深さが感じられるところです。人々の生活はここを中心にし
て広がり、またここへ帰ってくるのだなと体感せずにはいられないところです。
そして、最後に、ある丘の上にある砦を訪れました。1800年代の開拓者時代をそっくりそのまま再現したものです。そっくりそのままの銃や衣装を身に着けた警護の兵隊があちこちを見回っているのです。面白かったのは、そっくりなのは銃や衣装だけではなくその兵隊の意識までもがその当時のままであることでした。何を聞いても、彼の口をついて出るのはその当時の地理のままであり、政治的情勢や生活状態もその当時のままに保たれているのです。みんなで彼をどうにかして現在の時間
と場所に引き戻そうと罠にかけようとしても全く動じる様子もない事には驚きました。
次の日、父親の牧師の下で結婚式が近くの公園で行われました。牧師夫妻はあまりにもくだけすぎていると反対だった様子でしたが、近頃の若い子達のやることはよくわからないと苦笑しながらも幸せそうでした。そして、今でも僕の脳裏には花嫁が白い花嫁衣裳で木々や人々の間を爽やかな風のように満面の笑みを浮かべて歩き回っていている姿が残っています。
そして、次の日、その友人の牧師夫妻の車に乗りハイウェイ35号をただひたすら南に走りました。約半日、サイロとトウモロコシ畑しか見えない道です。三島由紀夫という作家が劇的な割腹自殺をした後だったので、このトウモロコシ畑の広がりには奇妙な複雑さを感じました。ヘミングウェイの自殺とも重なり合って見えたからでしょう。三島の死はなんとなく日本的で理解ができましたが、あの大地を見たときに、これ程の大地に抱かれて育ったヘミングウェイが何故自殺したのだろうかとても不思議な気持ちを持ったことを思い出します。人間ってやつはやはり一筋縄ではいかないものなのだろうなと実感したのも事実です。国状や文化が変わっても、人間の心とは不可思議なものだなと。
しかし、この三日間は重かった僕の心をかなり解放してくれました。やっとあこがれの地に降り立ち、どこまでも続くトウモロコシの海をただひたすら走っているのです。その緑の海にぽつりぽつりと浮かぶサイロ島々。肌に「コーンの香り」を浴び、目的地に向けて走っているのです。ここまで、随分と長い道のりでした。
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