冨吉 豊 の世界をあなたに・・・

青 春

END

■青春

青春時代は、思慮浅くして実り多き一時期である。思慮浅きものには、自己が全てである。自己の肉体と観念しか見えないし、見ようともしない。だから彼らは専行して壁にぶつかり、独断して穴に落ち込む。もとより未熟の結果である。しかし、青春時代の実りの一切は、彼らが壁にぶつかり穴に落ち込む、そこから生まれ出るのである。世界が確かな抵抗感を持って実在し始めるのはそこからである。総じて、自己に熱中した青年たちの試行と錯誤を通してしか、世界は実在とはならないのである。高田 瑞穂

 青春「青き春」。足下には緑に燃える地、空は青く、高く、身も心もふんわりとその青く遠きものへ吸い上げられていく。「性」は恥じらいや美しさを創る力にはなっても、まだ、人の心と肉体の地獄を経験するには至っていない。人生は微妙な駆け引きではなくて、素直な一直線である。心と体は真っ直ぐに欲しいものへと向かっていく。悪さをするにも正義の味方になれる時期である。しかし、「…であった」と言った方がいいのかもしれない。
 近頃、日常生活でめっきり聞かなくなった言葉です。一つには、「思慮浅く実り多き時期」というような感覚に合った生活空間や時間がめっきり少なくなって来ているのではないのでしょうか。いろいろな生活場面から、あいまいな時間が消え、白黒のはっきりとした時間だけが目立つようになってきているように思われて仕方がないのです。「ボーとしていたり、ボーとさせてもらったり」している時間が非常に少なくなっているのではないでしょうか。
 「ボーとしていたり」するのは自分でやろうと思えばやれたりするので少しはできると思うのですが、「ボーとさせてもらっている」時間というのは自分では作れないのです。人の心と生活にある程度ゆとりがないと生まれないからです。多くの子供たちを見ていると、けじめなくただ「ボーとしている」子供は多く見ます。何も言われなければそのままずっとそのままでいる子。その時間が過ぎ去ってくれるのをただただ待つだけの子。その子の周りの生活に感情のゆとりがあって「ボーとさせてもらっている」子供は本当に少なくなってきていると感じます。全ての時間が戦闘的で何かをしていなければならなかったり、何かを手に入れていなければならなかったりするのです。
 青春とは、まさにこの「ボーとさせてもらっている」時間から咲き出した花みたいなものだと思います。内紛などで十二歳になったら、自分の手に銃を持っていたり、持たされたりしている生活には自己や生の壮絶さはあっても、「思慮浅き実り多き時期」などというような空間はないでしょう。
 周りの世界に柔軟性があって始めて実現可能なものなのに、周りの世界から青春を育んでくれるような柔軟性のある空間が消えつつあるようです。子供の成長にこんなあいまいな思慮浅き人生の時期を過ごす事が許されなかったならば、白か黒だけのすっきりとした世界だけしか見る事が許されないような成長であったならばなんと寂しいことでしょう。白か黒かという世界は、合えばぴたりと合うし、合わなければそっぽを向けばいい。もっといやであれば暴力を振るえば片がつく世界です。
 もう随分と昔に、日本人の生活習慣からも意味のあるあいまいさは消えてしまっているのではないでしょうか。「中秋の名月」などと言っても今の高校生や大学生にはピンと来るものはないでしょうし、ましてや、「名月は縁側で見るもの」と言っても縁側のある家など都会では考えられない事でしょう。建築史家の中川武さんがこんな事を言っています。

 縁側に座して月見をする場合の事を考えてみよう。それは部屋の中からいわゆる普通の窓を通して月を見ることや、外に出て庭で月を仰ぐこととどのように違うのだろうか。
 窓の月は客観的に見ることができる分だけ、外の世界のよそよそしさがつきまとう。それに対して、庭の月は、降りそそぐ月光を浴びる臨場感の強さのために、つい冷静な月の鑑賞がお留守になりがちである。
 縁側に座って月を眺めるというのは、家の中と外の、両方の性格を同時に持つことだといえる。こんなふうにいえば聞こえはよいが、逆からいえば、どっちつかずの、曖昧ということにもなる。
 けれども、この曖昧さを含めて、外でもあり内でもあることの両義性が、縁側の空間の最大の特徴なのである。

 青春ってこの縁側で月を見ているようなものでしょう。家の中はうっとおしくなって来ているし。今まで自分が良しとしていたものにも、うっとおしさを覚えるようになって来ている。かといって、外の世界に一人で出て行くにはおっかない。すべてが中途半端なのは重々承知しているけれども、月はこうこうと照り、なんとも言えない美しさを醸し出している。総てがあいまいなのだけれども、家の中をどんなに捜しても、この月の神々しさは見当たらないのです。月を見ながら一杯とはいかないけれど、あの月にひれ伏したくなるような吸引力に抗えなくなるようなものを自分の中に感じ始めるときなのです。
 求めるものは山ほどあるけれど、すっきりと手に入るものは何一つとしてない。朝目覚める前から夢を見て、夜床につくまで夢を見ている。眠りの中で夢を見て、その夢の意味に熱中する。
 その激しさや、時間のずれは少しぐらいあったとしても、誰もが通った世界のはずなのですが、いつの間にか大人になった時忘れがちな世界です。自分が若かった頃は、大人に向かって叫びたかったはずです。「もう少し時間をくれよ。そんなに急いでどこに行けって言うの。人生って。社会って。友達って何なんだよ。」自分にとって意味のあるもの、それを求めれば求める程、社会や、大人との距離を感じてしまう。周りの大人や社会を眺めてもみんな平気な顔をして生活をしている。さも、お前の経験していることは「はしかや、おたふく」みたいな一過性の物で、誰でもかかってしまうし、すぐに忘れてしまうよと言っているみたいなのです。
 このどっちつかずのあいまいさが、自分を一体どこに導いてくれるものなのかは依然として解らないまま、縁側を降りて庭に出始めるのです。現実が与えてくれる臨場感はとても新鮮で、家の中の世界をすっかり忘れ去らせるに十分なものがあります。家の中ではすでに解り切ったことが繰り返されそれが解体されることはないだろうと思えるし。縁側の外には何が起こるか解らない、自分をときめかせてくれる何かを感じるのです。生まれて初めて自分の内から、他人がくれたものは嫌だという感覚が芽生えてきて、自分の身体と感情を頼りに外の世界の模索が始まるのです。今まで与えられた色、形、においに意味なく嫌気がさしてくるのです。外に出たい、そのときめくものに自分の身をまかせてみたいのです。
 そして、外では何が起こるか解らない、解らないから答えは自分で見つけなければならないのです。そして、また、どうなっているかを自分で納得いくように整理したいという欲望が心の底から湧き出てきて欲しいと、大人は願っているのですが、その事すらがうっとおしくてたまらなくなるのです。いつも口喧嘩はここから始まっていきます。「そんな事解っているよ」と。人生でもっとも美しい喧嘩かもしれません。
 所が現在は、生活の場面場面、また、段階ごとにそれに対するマニュアル化が発達し、あいまいになることや迷うことを最小限に留める努力が日夜行なわれた結果、あいまいさや迷いを悪い事と考えたり、また、それらに対する恐怖さえ覚える子供達が増えてきているみたいです。解らない部分を、その不思議さだけは確りと心に留め、その時は素直に解らないとしておいて物事を眺めておくことが出来なくなってきているし、また、そうすることがなかなか許されない生活習慣を身に着け始めているようなのです。子供達は解らなくなると、そのものに向かって完全に心を閉ざすか、知らぬ振りを決め込むか、騒ぎ出すかします。こうする事以外答えを強制化されているという脅迫感から逃れられないように思えてくるのです。
 一人一人が独立し、現実を自分で納得いくように整理して、自己を表現しない限り誰もその人を理解できなくなりつつある社会で、日本人が大切にしてきた、縁側の曖昧さと、そこから広がる心のときめきと焦りを、大人にもう一度思い出して欲しいと願っています。子供達が自分の言葉で未来が語れるように。

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