私の趣味の音楽のページ

    

 
中学時代の夏の深夜、確か勉強の合間だったと思うのですが、
志摩由起夫さんがDJをしていた音楽番組へ電話リクエストをしました。
 雑音に混じって、
 “遠く長野県から…中沢さんのリクエストで、ザ・プラターズの 
「オンリー・ユー」 をお送りします。”
〜曲が流れてきた時の興奮は今でも忘れられません。
 最新のヒット曲を、他人より早く知っている、ちょっとした自慢。社会と自分が結ばれた事の喜び…。
忘れられない想い出です。
■ 「Elvis Presley」

♪ 自分で買った初めてのレコードは、
ドーナツ盤のプレスリー:
「ハート・ブレイク・ホテル」 でした。
中学時代に味わった、そのインパクトの強さに匹敵するものを、
その後経験していません。
なんせ “初めて自分の音楽が出来た時” ですから…。

 「ハート・ブレイク・ホテル」 がブレイクした同じ年に、パット・ブーンの
「アイル・ビー・ホーム」
ジョニー・レイの
「雨に歩けば」、ザ・プラターズの「グレート・プリテンダー」など、
お気に入りのヒット曲が沢山ありましたが、とも角、プレスリーは他を圧倒していました。
 S盤アワーなどでは、必ずプレスリーが流れていましたし、湯川れい子という女性DJが、
事あるごとに彼の魅力を熱く語り…異常な社会現象、という雰囲気だったかもしれません。

 「Iアイ・ウォント・ユー・アイ・ニード・ユー・アイ・ラヴ・ユー」 は、私の特にお気に入りで、
これも当然ドーナツ盤ですが、ラジオで知って、すぐ買い求めた憶えがあります。
 その後、最初に買ったLPレコード…、一曲目が 
「Mean Woman Blues」 でしたから、
この歌は一番多く聴き…、今でも大好きです。
 レコードに針を乗せるにも技術が必要で、やはり一曲目が無難ということもあったようです。
もっとも、聴き終わって針を上げる時、“ギーッ”なんて音をさせたら、大騒ぎの時代でした。

 ファッツ・ドミノの 「Blueberry Hill」 は気に入って、このレコードで歌詞を憶えたものでしたし、
「Lonesome Cowboy」
 も好きな曲でした。映画を観てすぐ買ったはずですが、
どんなストーリーだったのか、ぜんぜん覚えていません。

「Heartbreak Hotel」 「I Want You I Need You I Love You」 「Love Me Tender」 「Too Much」 
「Hound Dog」 「Don't Be Cruel」 「All Shock Up」 「Jailhouse Rock」 「Don't」 「Teddy Bear」 
「Stuck On You」 「It's Now Or Never」 「Good Luck Charm」 「A Big Hunk」
 
ビルボード・ヒットチャートNO.1の曲だけでも、これだけあるようです。
サン・レコード時代にも素晴らしい曲がありますが、これは後で知ったこと、
50年代は、なんと言ってもS盤でしたから…。

 この他にも、
「That's All Right」 「One Night」 「Can't Help Falling In Love」 「Mean Woman Blues」 
「Doin' The Best I Can」
 …、とにかく、発売されるとすぐレコードを購入したものでした。
(但し、
「Blue Christmas」 だけは、60年代の録音のせいか、未だにCDでも手にしていません。
この曲は、ビング・クロスビーの 
「White Christmas」 に匹敵する、名曲だと思っています)。
  
■ 「Elvis Presley」


 
人気絶頂の時に、兵役があって大騒ぎになりました。
ファンが行かせないと騒ぎ、マスコミが連日報道し、私も遠くから気を揉んでいたものです。
「Are You Lonesome Tonight ?」 とか 「Stuck On You」 退役後のヒットだったと思いますが、
戻ってきた時は感激したものでした。もっとも留守中も、彼の曲はラジオでいつも流れていましたから、
その間、彼の人気に陰りがでるようなことは一度もありませんでしたが…。
 主演映画もほとんど観ましたが、イマイチの出来栄えでした。50年代の映画に愛着はあるものの、
ストーリーより挿入歌が目当てでしたから、どれを観ても結構納得していたものです。
 中では 「ラスヴェガス万歳」が一番良く、「燃える平原児」は後味の悪い映画だったように憶えています。

 彼は、アップ・テンポの曲も当然良いのですが、バラッドに聴くべきものが多く、
並みのシンガーと違っていたのです。
「Love Me Tender」 「Love Me」 「Loving You」 「Are You Lonesome Tonight ?」 等の説得力には、
ビング・クロスビーや、メル・トーメも真っ青といった感じでしょう。
 メンフィス生まれの彼は、カントリー・ミュージックをベースに、黒人のブルースを、肌で感じて育った為、
黒人音楽と白人音楽の融合は、ごく自然の成り行きだったのだと思います。


 プレスリーが成功した影に、ギタリストの、スコッティ・ムーアの存在がありそうです。
彼の優れたギター・テクニックが、プレスリーの音楽を、より次元の高いものに仕立て上げているのです。
まあ、私がカントリー好きということもありますが…。

 テレビで、プレスリーと3人ほどのメンバーを聴衆が囲んだ、リラックスした雰囲気のコンサートを見ました。
その時、スコッティ・ムーアの実像を初めて見ましたが、想像通りの人物でした。
静かで控えめな物腰、しかし、プレスリーの後見人といった風情でした。
早くから独立して活躍すれば、チェット・アトキンス以上に、名声を得ることが出来た人物だと思います。


■ 「Jerry Lee Lewis」

♪ 
「Blue Suede Shoes」 は、カール・パーキンスの歌で
大ヒットしたようですが、私はプレスリーでこの曲を知りました。
パーキンスのくつろいだ雰囲気は、その後の成功を予感させましたが、
確か自動車事故でブランクがあって、結局プレスリーには及ばなかったのでは、と推測しています。
「A Fool Such As I」 は、やはり、カントリーの大御所:ハンク・スノウの方が当然良く、
私も大好きな曲ですが、プレスリーのカントリーやハンク・スノウへの熱い想いを感じます。 

 同じ頃、ヒット・チャートをにぎわした、ジーン・ヴィンセント:
「Be-Bop-A-Lula」 
ファッツ・ドミノ:
「Blueberry Hill」ザ・ダイアモンズ:「Little Darlin'」 バディ・ホリイ:「Peggy Sue」 
ジェリー・リー・ルイス:
「Whole Lot Of Shakin' Going On」
 …、これらの曲は、プレスリーと共に、私を、いつでも少年時代に戻してくれます。
■ 「Buddy Holly」 

 
「Tutti Frutti」のリトル・リチャード、「Jenny Jenny」 はうるさい歌でしたが、
ロックンロールといったらはずせないアーティストです。チャビー・チェッカーの

「Twist」
なんてのも大ブレイクしたものですが、その後、不思議と彼らの歌を聴くチャンスがありません。
 チャツク・ベリーの
「Johnny B. Good」 には映画:「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で再会しましたが、
時代設定が55年というのがニクイところで、プレスリーがブレークする前の年なのです。
 西部劇ファンの私には、ロナルド・レーガン主演の「バッファロー平原」の看板が懐かしかったものです。
まさかあのB級俳優が、後にアメリカ大統領になるとは、誰も予想は出来なかったはずです。
 

■ 「Chuck Berry」
 

ロカビリーを初めて聴いたのは、
グレン・フォードが教師役で、悪がきを相手に苦闘する映画:「暴力教室」 の中で、
ビル・ヘイリー&ザ・コメッツが歌った 
「ロック・アラウンド・ザ・クロック」 です。
でも、映画そのものが嫌いでしたから、曲に対しても、あまり良い印象をもっていません。
 「エデンの東」 「理由なき反抗」 も同様で、良識ある少年でしたから、あのての映画には、
共感できなかったのかも知れませんし、子供すぎたのかも知れません。

  

今考えると、プレスリーが、アメリカ音楽の中で
新しいジャンルを確立したことが、それまで大衆音楽として
支持を受けていたジャズを、決定的に、マイナー音楽へ
追いやったんだなーと思います。
それは “新しい若者文化の台頭”、と言い換える事も出来ます。

 それ以前に存在した様々なスタイルの音楽も、従来とは違った形での
 “ポピュラー・ミュージック” が、大衆音楽のメインとなることで、脇へ追いやられたのです。
 歌の世界でも、ビング・クロスビーを追いかけていた若者達が親になって、その子供達には、
マッタリした彼の歌に飽き足らなかったのでしょう。
 私たちが、藤山一郎:「青い山脈」 では満足出来なかったように…。

50年代の中頃、ヒット・チャートでは、新旧交代といった現象が起こり、
丁度私の年代が、その両方を享受したのかもしれません。

朝鮮戦争後の冷戦時代、世界的に起こった民族独立運動と、
アメリカにおける人権問題。ビッグ・バンド・ビジネスの行き詰まり。
新しいメディアとしてのテレビの普及とライフスタイルの変化。
それらを背景に、優れた黒人の音楽(R&B)と白人音楽
(ヒルビリー)の融合を、センセーショナルな形で実現した
“白人の若者”は、当時アメリカ社会が待ち望んでいた“ヒーロー”だったのです。
 もっとも、ジェームス・ディーンにしても、プレスリーにしても、社会の異端児としてデビューしたのに、
当人が気付かぬうちに時代の寵児になっていたというほうが、あの当時の様子からみて、
的を射た表現なのかもしれません。

 人種問題は無かったものの、アメリカの影響下にあって、新しい活力源を模索していた、
誕生したての日本のマス・メディアや若者にとっても、プレスリーは新時代の“カリスマ”として歓迎されたのです。
 プレスリーが永遠である大きな理由の一つです。
但し、この頃から、音楽業界が強力なメディア・技術と
新たな市場を得て、従来の何倍ものスピードで、ポピュラー・ミュージックをスクラップ&ビルドして、
巨大マーケットを形成・維持していくという、今日まで続く音楽産業を生み出した事も事実です。

 品の無い話になってしまいましたが、ついでに言えば、この頃から、“モノと心” の関係が
微妙になっていったのかもしれません。
プレスリーの夢の車:キャデラックを中心にした、
アメリカの自動車産業の差別化戦略の凄さも忘れられません。
マイナー・チェンジによる、毎年のテール・デザイン競争は
見事なもので、級友の、ハイヤー会社社長の息子に
見せてもらった雑誌で、その奇抜なデザインを無邪気に
楽しみながら、ひたすらアメリカに憧れたものでした。
 ナッシュ、スチュード・ベーカー、オールズ・モビル、パッカード、プリムス、ポンティアック、シボレー、ダッジ〜、
皆独創的なデザインでしたが、フォードだけは、テール・ランプが丸くシンプルなもので気に入っていました。
日産のスカイラインが真似ているようですが…、当時は日産オースチン、日野ルノーなんていう時代でした。
トヨペット・クラウンがデビューして間もない頃で、田舎では乗用車自体が珍しい存在でした。
 特徴の無い今の車には、全く興味もありませんが、あの頃のアメ車だけには、特別な想い入れがあって、
ボビー・ベアの
「デトロイト・シティ」などを聴いていると、戦闘機の尾翼を模った夢のアメ車が頭に浮かびます。


 成長と共に、プレスリー人気も下火になり、替わりに、ビートルズが人気になりました。
彼らも、プレスリーやブルース・アーティスト達の影響を受けて育ったのですが、
私はこの頃になると、こういった音楽に、全く興味も無くなっていましたから、ビートルズに想い入れもありません。
彼らの作品には名曲も多いのですが、心に刻み込まれるほどの、感慨が無いというところです。

 その後、プレスリー:カムバックのドキュメンタリー・タッチの映画を観ましたが、
当時の面影も無く、声のハリもなく、私のプレスリーではなくなっていました。
故あって、私の手元に一枚も彼のレコードが残っていませんが、彼は、50年代に出会った、
永遠のアイドルとして、私の想い出の中に、ロックされ生き続けています。


最近、娘に頼んで
「Blue Christmas」 「Can't Help Falling In Love」 
「Are You Lonesome Tonight ?」
 Love Me Tender」 
を携帯電話の、着メロ用にダウンロードしてもらいました。
普段は、着信音はオフにしているのですが、時々、一人で操作して楽しんだりしています。
 子供達が夢中になる理由がチョッとわかったような気がします。
 まともな音色ではないものの、曲を聴いていると癒されるから不思議です。
変な時代になったものですが、これで、電話嫌いが解消されるかもしれません。

 「Blue Christmas」 は、社会人になりたての頃ラジオから流れていたのですが、
皮肉な事に彼女との悲しい別れの直後のことでした。
 クリスマスに失恋の歌などそれまでは考えられなかっただけに…これを聴いた時はこたえました。
今では一番のお気に入りクリスマス・ソングになりましたが、音楽性に優れているとかいうことではなく、
懐かしい想い出をたっぷり運んできてくれる、クリスマス・シーズンには欠かせない名曲なのです。


 映画音楽系・ミュージカル系・ビッグバンド出身のポピュラー系、
そしてプレスリーをはじめとする様々なジャンルの音楽が、数々のヒット曲、プレーヤーと共に、
少年時代の私に強烈な印象を残し、今も私のスタンダード・ナンバーとして生きています。

  
■ 「Memory Of Standard jazz」
  ジャズを感じるアーティストでは、
♪ ドリス・デイ:
「シークレット・ラブ」 「ティー・フォー・トゥー」 (永い間、映画スターだと思っていた)
♪ ジョー・スタッフォード:
「霧のロンドンブリッジ」 (この一曲で、一生のアイドルになろうとは…)
♪ ヘレン・メリル
「ユード・ビーソーナイス・トゥ・カムホーム・トゥ」 (この歌しか、彼女の聴くべき歌は、未だにない)
♪ クリス・コナー:
「ララバイ・オブ・バードランド」 (その後、アニタ・オディ、ジューン・クリスティの歌も、沢山聴く事になる)
♪ パティ・ペイジ:
「テネシー・ワルツ」 (江利チエミでヒット。その後、私のカントリーでの持ち歌に…)
♪ ダイナ・ショア:「青いカナリア」 (雪村いずみでヒット。「ボタンとリボン」: 映画ではボブ・ホープが歌っていた)
♪ ローズマリー・クルーニー:「カモナ・マイ・ハウス」 「マンボ・イタリア−ノ」 (これも江利チエミだったか…)
♪ ペギー・リー:
「ジャニー・ギター」 大砂塵:ジョーン・クロフォードが印象的。 「ブラック・コーヒー」 粋な歌で好き)
♪ ジョニ・ジェイムス:

“ハンク・ウイリアムスを歌う”
 
美人だから買ったレコード。その後ハンク・ウイリアムスがカントリーのアイドルに。

♪ ケイ・スター: 「ロック・アンド・ロール・ワルツ」 (独特の癖のある声が印象的)
♪ ジュリー・ロンドン:
「クライ・ミー・ア・リバー」 (今でもバーニー・ケッセルのバックで、囁くような彼女の歌を楽しんでいる)
♪ エラ・フィッツジェラルド「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」 (ジャズ・シンガーの典型という印象だった)
♪ ナット・キング・コール:
「ラブレターズ」 「トゥ・ヤング」 「キサス・キサス・キサス」(ピアノは成人してから)
♪ フランク・シナトラ:
「国境の南」他多数 (日本でいえば美空ひばり。二人といない、スーパー・スター)

♪ ジョージ・シアリング:
「9月の雨」 (軽快なピアノ演奏が、今にも聞こえてきそう…)
♪ シドニー・ヴェシェ:
「小さな花」 (ザ・ピーナッツでヒットした。今でも、彼のソプラノサックスの名演奏をを楽しんでいる)
♪ エロール・ガーナー:
「ミスティー」 (その後、ジャズ・アーティストが、好んで演奏する、スタンダードの典型として定着)
♪ 
ピーナッツ・ハッコー:
「鈴懸の径」 (鈴木章治で有名だった。その後サッチモのアルバムで彼を知る)
♪ レス・ポール&メリー・フォード:
「世界は日の出を待っている」 (バンジョーで演奏したくて、一生懸命練習した)

♪ マクガイア・シスターズ:
「シュガー・タイム」 「シンシアリー」
 
当時、愛らしい声しか知らなかったのですが、
CDの写真で、美人であることを知って、凄く得をしたような気持ちです。
 その他のナンバーも、ハーモニーの美しさが魅力的です。


♪ アンドリュース・シスターズ:

「ラム&コカコーラ」 「素敵なあなた」
 
私が生まれる前の曲なのに、どうしてリアル・タイムでも、
あれだけヒットしていたのか、チョッと不思議な感じがします。
いずれにしても息の長い名曲と言えるでしょうが、
「素敵なあなた」 は、レノン・シスターズでも聴いた憶えがあります。
こういった女性コーラス・グループが、今の時代にも活躍して欲しいものです。
 ミルス・ブラザース、インク・スポッツ、フォー・エイセス、フォー・フレッシュメンと、

男性グループも随分活躍した、華やかな時代でした。

♪ パット・ブーン:
「砂に書いたラブレター」 「エイプリル・ラブ」 
「アイル・ビー・ホーム」 「アナスタシア」

ともかく、マスコミは何かにつけて彼とプレスリーを比較していました。
事実プレスリーがはみ出し者のイメージでしたから、パット・ブーンは、
白い靴・白い歯・清潔な服装で、見るからに健康な優等生といったイメージで対抗していたようです。
 「エイント・ザット・ア・シェイム」を聴いて、彼もロカビリー路線を、一応は目指したことがわかりますが、
プレスリーのようなブルース・フィーリングが無かったので、方向を変えたのでしょう。

 売り出すためのお互いの戦略、今ならそんな冷めた見方も出来ますが、
当時は、まだ見ぬ憧れのアメリカの話題には無条件で飛びついていましたから、
パット・ブーンが上品だと繰り返す、ディスク・ジョッキーの言葉につられて、
彼のファンになった人も沢山いるはずです。
幸い私は、どちらも好きでしたから迷う事もありませんでしたが…。
 ビリー・ヴォーンをバックに歌うヒット曲の数々は、永遠のスタンダード・ナンバーになりました。

 ロカビリーは、黒人との差別化音楽として生まれたのでしょうが、
モダン・ジャズ同様、詳しい事は自称評論家に任せる事にしています。
分類とか定義などというものは、リアル・タイムの興奮を味わった者にとって、意味の無い事です。
 想い出深いブルース・アーティストについては、いずれ取り上げようと思っています。


♪ ジョニー・マティス:
「チャンセス・アー」 「イッツ・ナット・フォー・ミー」 
「ア・サーテン・スマイル」 「ミスティー」

 黒人のソロ・シンガーでは、最高です。
特にこの4曲は、優しさと抜群の歌唱力で、忘れられない想い出の曲となっています。
これを聴こうと買ったCDがライブもので、曲は入っているのに全然雰囲気が違ってがっかりしました。
 昔聴いた曲は細部に渡ってしっかり身体に染み付いているので、少し変わっているだけでも許せないものです。
当然CDショップを渡り歩いて昔のままのジョニー・マティスに巡り会えましたが、こんなことがよくあって困ります。


♪ プラターズ:

「オンリーユー」 「ユーネバ・ノー」 「マジック・タッチ」 
「グレート・プリテンダー」
 「トワイライト・タイム」
オーソドックスなコーラス・スタイルが見事です。ハーバード・リードの
信じられないほどの低音、トニー・ウイリアムスの心地よいメーン・ヴォーカル…
オリジナル・メンバーでの、先の4曲は、ドーナツ盤で、擦り切れるほど聴きました。
 現在、CDで楽しんでいる事は言うまでもありませんが、ほとんど無くしてしまった
レコードなのに、このドーナツ盤だけはしっかり手元に残っています。プレイヤーが無いので、今はお飾りですが…。

       
♪ 50年代のカントリー・ソングにも、想い出のヒット曲が沢山ありますが、
別なページでとりあげようと思います。

      
♪ ジーン・ケリー:「雨に唄えば」 メル・トーメ:「ブルー・ムーン」 ペリー・コモ:「パパ・ラヴス・マンボ」
 ジュディ・ガーランド:「虹の彼方に」  ミルス・ブラザース:「ペーパー・ドール」 フォー・エイセス:「慕情」
 ハリー・ヴェラフォンテ:「マティルダ」 フランキー・レーン:「ハイ・ヌーン」  
エディ・フィッシャー:「エニー・タイム」 等など、
当時映画・ラジオで知った歌手は沢山いたけれど、私にとってはそれほど好きなアーティストでもなく、
特別な想い入れもありませんが、数十年ぶりに聴き直すと昔の情景が浮かんでくるから不思議です。

 好みの歌手ではないと言っても、ビング・クロスビー:「ホワイト・クリスマス」だけは特別です。
子供の頃からクリスマスと言ったらこの曲が一番で、今でもこれを聴くたびに、
幼い頃、家族一緒に過ごした楽しいクリスマス・イヴの情景が思い浮かびます。
同名の映画があったようなのですが観た記憶がありません。
 もっともビング・クロスビーの映画は沢山観た筈なのに、「上流社会」位しかしっかり憶えていませんから、
シナトラのようにお気に入りでないと、長い間には記憶の彼方ということになってしまうようです。
  
 「タミー」 がヒットし、顔も声も可愛らしいデヴィ・レイノルズでしたが、
亭主のエディ・フィッシャーは、事もあろうに彼女を振って、エリザベス・テーラー
と結婚してしまったのです。全く自分に関係の無い事なのに、
非常に腹が立った憶えがあります。
 彼の 
「オー・マイ・パパ」 もヒットして、おしどり夫婦などと言われていたのにです。
結局、彼もその後振られたのでスカッとしましたが、彼は懲りずに、
コニー・スティーブンスとまた結婚したようなのです。
彼女、デビーとよく似た顔の可愛らしい女性でした…ム〜ッ。

 
ところで、スタンダード・ナンバーについては、素朴な疑問があります。
 現在スタンダードとして親しまれている沢山の曲は、50年代のポピュラー・ヒット・チャートを
見る限り、色んなアーティストが競って取り上げています。
 リアル・タイム以前での音楽界ではもっと当たり前だったのだと想像していますが、
作詞家・作曲家とアーティストとの関係はどういうものだったのか…、
恐らく、ティン・パン・アレイが介在しているのでしょうが、
現代の感覚とは違いすぎて素直には理解出来ないところです。


 でも、発表時のポピュラー・ソングは、沢山のアーティストが競い合って歌ってくれたおかげで、
現代、確固たるスタンダード・ナンバーの地位を確保できたんだろうとは確信しています。
 日本でも最近は古い歌のカバーなども盛んですが、原曲そのものがお粗末ですから、
単なる歌謡界の不毛さを露呈している感は否めません。



 若者むきの、いわゆるアメリカン・ポップスは、
50年代末頃から、雨後のたけのこの如く登場し、日本中を席巻しました。
♪ ポール・アンカ: 「Crazy Love」 「You Are My Destiny」 
当時、ポップ界では一番の人気だったかもしれません。
どちらのヒット曲も好きですが、
「Diana」 はあまりにも流行りすぎたこともあって、
当時から食傷ぎみでした。
彼は、生意気な子供だとマスコミに叩かれたりしましたが、後年、
映画:「史上最大の作戦のテーマ を作ったり、シナトラに、晩年のヒット曲になった 
「My Way」 の歌詞を提供したりと、アーティストとして非凡さを発揮していったようです。

♪ ニール・セダカ:
「Calendere Girl」 「You Mean Everythinga (君こそすべて)」 
「The Diary (恋の日記)」
 ハリのある歌声・歌の上手さは、ポピュラー・シンガーの中でも、
群を抜いていたと思います。若手の中では、一番気に入っていたからかもしれませんが…。

♪ コニー・フランシス:
 
「Pretty Little Baby (可愛いベイビー)」 
「Lipstick On Your Collar 
(カラーに口紅)
「Stupid Qupid 
(間抜けなキューピット)」 「Vacation」
 
彼女の澄んだ歌声・歌唱力は、際立っていて、気に入っていました。
可愛い娘
に違いない、と期待していたのに、
青春映画:「ボーイ・ハント」 の彼女を見て…、ギャップの大きさに、呆然としたものでした。

 ベン・E・キング:「Stand By Me」  ロイ・オービソン:「Oh! Pretty Woman」 などは、
近年の映画で、リメイクされてヒットしました。
 ワンダ・ジャクソン 、ブレンダ・リー、コンウェイ・トゥイッティなども、
ポピュラー・シンガーとして忘れられませんが、カントリー歌手としてもかなり成功したようです。

 これ以外にも、
デル・シャノン:
「Runaway (悲しき街角) ヘレン・シャピロ:「Don't Treat Me Like A Child (子供じゃないの)
ジミー・ジョーンズ:「Good Timing」  リトル・ペギー・マーチ:「I'll Follow Him」  
ジーン・ピットニー:「Louisiana Mama」ナンシー・シナトラ:「Like I Do(レモンのキッス)  
ポールとポーラ:
「Hey Paula」 アルマ・コーガン:「Good Bye Joe」 「Pocket Transister」  
リッキー・ネルソン:「Travelin' Man」 「Young World」

まあ、沢山の、ポピュラー・ソングが、次から次と、ヒットしたものです。

プレスリーよりチョッと後のデビューで、
プレスリーより甘いマスク、甘い歌声で、男性だけでなく、
女性にも人気があったロカビリー歌手の筆頭が、
リッキーネルソンでした。

テレビ・シリーズの「陽気なネルソン」では、まだ幼いボクちゃんが、
温かい家庭の愛情に包まれて、のびのび育っているという雰囲気が伝わってきて、
貧しい日本の茶の間にも、好意的に受け入れられたのだと思っています。

 ジョン・ウエイン、ディーン・マーチンと映画: 「リオ・ブラヴォー」 にも出演し、
甘いマスクが受けて、ずいぶん人気になったものです。
この映画は、私の西部劇、歴代ベスト5には、入っている作品です。
ディーン・マーティンの
「ライフルと愛馬」 
バックに流れる、ディミトリ・ティオムキンの
 「皆殺しの歌」 も良いのですが、
ハーモニカを吹いていた、ビッコのおじいちゃん:ウオルター・ブレナンは、
「Old River」 という歌(語り)で、ビルボード・カントリー部門で、
トップになったほどの実力者です。アンジー・ディッキンソンの怪しげな演技も、この映画ではそれなりの
効果を出しており、出演者全員が、映画を楽しんでいる感じに好感がもてて、娯楽作品として一級品だと思います。


ひばり、チエミ、いずみの後を追って、
ナベ・プロの、ザ・ピーナッツ、伊東ゆかり、中尾ミエ、園まりなどが、
アメリカン・ポップスの、日本語版を歌ってヒットしました。
テレビの普及と共に、日本の歌謡界が、大きく様変わりしていくことになります。

 私にとっては、プレスリーは別格として、バディ・ホリー、パット・ブーンが最高で、
ニール・セダカ、コニー・フランシスぐらいまでが気に入った歌手で、他に特別な想いはありません。
ましてや、日本の歌手は、ゴメンナサイという感じでしたが、ザ・ピーナッツのハーモニーはかなり魅力がありましたし、
「小指の想い出」 は、チョッと垢抜けない感じで可愛らしかった伊東ゆかりのヒット曲として忘れられません。

 美空ひばりは別で 
「悲しき口笛」 からずっとファンでした。松竹から東映まで、ほとんどの映画も観ています。
彼女は世界で通用する、ただ一人のスーパー・アーティストだと思っています。
それに、フランク永井:
「有楽町で逢いましょう」 は、その映画まで観たり、第一回レコード大賞の、
水原弘:
「黒い花びら」 は今でも歌えてしまうのですから、全く歌謡曲に疎かったわけではありません。

 ある日、FENを聴いていたら、何と「スキヤキ」という曲名で、坂本九が、
「上を向いて歩こう」 を歌っていました。
それも、ビルボードのヒット・チャートaE1にランクされていたのです。…非常にがっかりした覚えがあります。
 彼の妙にニヤケタ顔も、歌声も嫌いでしたが、それより、私の夢の世界であった、アメリカの音楽界に、
まさか坂本九とは…、という思いでした。
彼は、その後悲劇に遭遇してしまったので、あまり悪口は言えません。

 60年代の初め、世界も、アメリカの社会も、大きく変わり始めていたのでしょう。
  

■ 「Cherry Blossom」


大学1年の時、練習の帰り、渋谷の喫茶店:「プリンス」 で、
渡辺とも子ちゃんのライブを見た事を、ふと想いだします。
まだ、あどけなく、可愛らしい彼女でしたが、その後、
すぐ結婚してしまい、驚いたものでした。彼の旦那だったジェリー・藤尾も
そうですが、キンゴロウの息子の山下敬二郎、平尾昌章、など日本のロカビリー歌手には、
当時、全く興味も湧かなかったのは、私がアメリカかぶれだったせいかなと思っています。

 むしろ、小阪一也とか、寺本圭一などのカントリー・シンガー(当時はウエスタン歌手)のほうが
上品で、どちらかといえば好感をもっていたような気がしていますが…、真剣に聴いたことはありません。
 「16トン」は、マール・トラヴィスであり、大ヒットしたテネシー・アーニーフォードであり、
決して小阪一也の想い出ではありませんから…。


 渡辺マリ:
「東京ドドンパ娘 という変てこな歌は、なぜかお気に入りで、調子の良さから、
パチンコ店:「エーワン」 で、よく鼻歌交じりで、玉をはじいていた事を思い出します。
 東横線で通っていましたから、渋谷は、避けて通れない街で、途中立ち寄って、
「エーワン」で、食料品や生活必需品を、調達したものでした。

 プリンスという喫茶店は、センター街を入って直ぐの角にありましたが、
いろいろ変わって、今では、宝石店みたいですし、エーワンに至っては、旭屋書店の上あたりだったな、
と正確な位置さえ解らない程、変貌してしまいました。
 でも、一番変わったのは、人の数でしょう。当時は、居心地の良い街でしたが、
現在の異常なほどの来街者の多さは、ヒューマン・スケールを、はるかに超えてしまい、
私の、安らぎの街ではなくなってしまいました。


■ 「Caterina Valente」

※ 当時の恥ずかしい想い出ですが、
大学1年(体育会)春の合宿で、余興の際、
先輩の強要に仕方なく、皆の前で歌った歌が、
カテリーナ・バレンテの
 「情熱の花」 でした。
原語のまま歌ったのですが、何と言っても原曲が 
「エリーゼの為に」 ですから、
今思うとなんと場違いな歌だっただろうと、赤面する思いです。
 “白ける歌を歌うんじゃない!、私が先輩なら、たしなめたところです。
 和洋を問わず、相当のレパートリーを誇っていたのに、よりによってあんな歌を歌うなんて…、
当時流行っていた事もありますが、チョッとカッコイイところを見せたかったに違いありません。

 私の後に、2年生の先輩(東京出身)が、プレスリーの 
「Jailhouse Rock」 を身振りよろしく歌い、
座を盛り上げてくれた事を思い出します。この先輩にはその後も随分世話になったのですが、
不義理をしています〜。

 その件以来在学中は、外国音楽ではもっぱら、カントリー・ソングということになりました。

 少年時代、外国音楽を、意味も理解しないまま、苦も無く憶えることが出来た記憶力が、
今は懐かしいかぎりです。


■ 「P.P.M.」
60年代、若者音楽の、もう一つのブームは、フォーク・ソングでした。
 反戦運動のテーマ・ソングになった、ボブ・ディランの曲: 
「風に吹かれて」
 
は、ピーター・ポール&マリーで大ヒットしました。
このグループは:
 「500マイルも離れて」 「花はどこへ行った」 
「パフ」
 などを歌って、フォーク・ブームの頂点にいました。
他に、ジョーン・バエズ: 
「ドンナ・ドンナ」 や、「トム・ドゥリー」 をヒットさせた、
キングストン・トリオも忘れられません。


 カントリー・ソングやフォーク・ソングの普及は、日本でも曲作りとプレイヤーが同一人物、
つまり、シンガー・ソング・ライターの出現を促しました。
 60年代に入って、ビートルズやベンチャーズが、エレキ・ギターを流行らせましたが、
アコースティック・ギターは気軽で場所を選ばず、好きな歌をいつでも歌えるお手軽さがありました。
私も人なみにギター片手に、カントリーや、フォークを楽しんだものです。

   
■ 「When The Sun Goes Down」 : The Brothers Four


 外国生まれのフォーク・ソングは、
スタンダードとして定着し、今聴いても心地よいのですが、
それに便乗した、和製フォーク・ソングとやらは、その題材のチープさ、センスのなさで、大嫌いでした。
当時、かっこをつけて、テレビ出演を拒否していた連中が、現在、お笑いに、又は、
ベテランの歌手と称して、テレビ出演などをしているのを見るにつけ、日本の音楽の貧困さを痛感します。

 ポピュラー・ソングは、時代と共に、消えていったものが多いのですが、時々聴く、当時のアメリカン・ポップスや、
フォーク・ソングは、単に懐かしいだけではなく、音楽性にも優れ、心なごむ曲も多いように思います。

 

■ 「My Darling Clementine 」 : 1946


 ラジオ・映画・喫茶店・レコードなどで聴いた、これらの曲を、
今はCDで、手軽に楽しむ事が出来ます。
そして、うれしい事に、そのアルバムの中には、
当時聴いた曲以上の、素敵な作品が沢山あって、
過去の財産が、今になって、何倍にも膨らんだような、幸せな気分を味わう事が出来ます。

 50年代のラジオ番組、ヒット・ナンバー、プレスリー等については、他のページでも取り上げる事になると思います。

追記:
私が子供時代、♪「オンリー・ユー」をリクエストした…その深夜のラジオ番組名が、ようやくわかりました。
ラジオ東京の「イングリッシュ・アワー」という番組で、志摩夕起夫とアメリカ女性がDJをしていたようです。
日本で初めての深夜軽音楽番組、初めての電話リクエスト番組だったというのですから、
私にとっても鼻が高いというものです。

 次は、「モダンジャズと映画」かなんかでいきたいと思っています。


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