★☆★☆
       
 〜〜
50年代の映画館の想い出〜〜。

 

■ 「荒野の決闘」


 音楽の想い出は、大抵映画と繋がってしまいますから、
チョッと映画館の想い出でも綴ってみようと思いました。
でも、ここではあまり音楽の話にはならないかもしれません。

 田舎時代…というのは私の場合、50年代末までのことですが、
わが小さな町にも5つの映画館がありました。
引揚者でしたから、私にとっては生まれ故郷というわけではありませんが、
高校時代まで過ごした想い出深い場所です。

 1:ハリウッド映画専門館。2:日活・時々洋画・その他館。3:東映映画専門館。
4:大映・松竹映画館。5:ヨーロッパ映画・東宝映画館、という布陣でした。
 小学校時代は親に連れられて、中学・高校時代は一人で、友達と一緒に…、
ともかくこれらの映画館は、子供時代の夢の世界でした。

  
■ 「日活映画」


 2:日活・時々洋画・その他館
 この映画館で観た全てを今でも憶えています。

1本目は、片岡知恵蔵主演の「三本指の男」…これは、
怖い映画として忘れられず、二階席の一番前の右横と座った位置まで憶えています、
小学生時代のことなのに〜、
お客も少なくて一層怖かった。後に横溝正史のものだと知ったのですが、
高校時代に東映映画で観た、「多羅尾伴内シリーズ」は、同じ知恵蔵でも随分軽くて楽しめました。
今でも、時々テレビで横溝モノをやっていますが、予告編だけでも怖いイメージが膨らんでしまいます。
 この映画と、ハリウッド専門の映画館で観た「肉の蝋人形」だけはトラウマになっていて、
後に東京タワーの人形館でギョッとしたことがあります。

 2本目、わが理想の女性にめぐり合った映画:「白昼の決闘」…親戚のおばさんと一緒に観ましたが、
ともかく、ここでのヒロインは永遠の女性になりました。
前述したジェニファー・ジョーンズ、グレゴリー・ペック、ジョセフ・コットン主演の切ない結末の西部劇でした。

 もう1本は、石原裕次郎の 「錆びたナイフ」…日活映画は、これとスポーツの県大会で松本へ行ったとき、
帰り列車の時間調整で観た、「風速40メートル」で、後にも先にも映画館での日活映画は、この2本だけですし、
この映画館で観た映画での総計は3本だけですから、よく憶えているのでしょう。
赤線地帯との境目にあって近づきがたい雰囲気だったということも影響しているんでしょう。

 
最近テレビで、「太陽の季節」 「狂った果実」 をやっていましたが、
私の中では 
「エデンの東」 「理由無き反抗」 の二番煎じじゃん、と思ったものでした。
 小林旭の 
「ギターを持った渡り鳥」 シリーズというのも、当時上映されているのは知っていましたが、
これも、スターリング・ヘイドン主演映画:
「ジャニー・ギター」 の真似に違いないと、
観る気にもならなかったものでした。
 赤木圭一郎は、ジェームス・ディーンばりに、自動車事故で早死にし、
和製ジェームス・ディーンなどと呼ばれていたものでした。
いずれにしても、ハリウッド映画とカブッていたのは知っていましたから、
日活映画には全然興味が湧きませんでした。
  蛇足ながら、わがひばりチャンが小林旭と結婚と聞いたときは、
もうひばりチャンとはさよならだな、と覚悟したものでした。


  
■ 「大映映画」

4:大映・松竹映画館
ここで観た映画も比較的少ないのですが、
私の場合、そうは言っても相当観ているはずです。
すぐ想い出す俳優と言ったら、市川雷蔵、勝新太郎、田宮次郎…。

 もうチョッと古いと長谷川一夫、変わったところで、「有楽町で逢いましょう」 
なんていう、流行歌の映画化…あたりでしょうか。

 想い入れが無いので、比較的記憶の薄い映画館ですが、市川雷蔵の 「霧隠れ才蔵」 
「陸軍中野学校」 「眠り狂四郎」 や田宮二郎の 「黒の試走車」 などのシリーズものは、
なかなか面白い映画としてよく憶えています。

 日本の現代文学には、全くの私でしたが、柴田練三郎、五味康祐、山田風太郎などの
時代物は読んでいましたから、なじみの時代小説は、映画でも楽しんだものでした。
 「眠り狂四郎」は後だったと思いますが、原作のイメージどおり、
美男でニヒルな役は市川雷蔵にピッタリだったものです。

 当時通いつめた映画館は、なんと言っても、1:ハリウッド映画館、3:東映時代劇映画館、
そして家の近くにあった、5:ヨーロッパ映画と東宝映画館ということになります。

 あまりにも沢山の映画を観たのでいちいち書き出せませんが、
これ以外にも長野に家族同様の親しい友人がいて、これが我が家に負けない洋画好きの一家でしたから、
しょっちゅう駅前の映画館へ行きましたし、埼玉の親戚も同様で、親がさばけていて、
訪ねるたびに日比谷映画街へ連れて行ってもらったものでした。
 復興期の50年代前半、映画くらいしか楽しみが無かったとはいうものの、
私の場合相当恵まれていたはずで…、今ごろになって感謝の気持ちが湧いてきます。

 
私が親になってからは、家族で観た映画など数えるほどしかありませんから、
チョッと反省の気持ちもあるのですが、何と言っても、ファミコンあり、テレビあり、ビデオあり、
そして塾ありという世代ですから、な〜んにもオシャレな遊びもなく、ノー天気に遊びまくっていた当時とは
時代があまりにも違いすぎて、私の経験をもう一度というのは無理というものです。
 それに私が子ども時代に観た映画は、学校で禁止されていたものばかりでしたから〜。


   
■ 「バート・ランカスター&ゲーリー・クーパー」


1:洋画専門館
外国のニュースを映像と竹脇昌作の名調子でいち早く知り、
20世紀フォックス、MGM、コロンビア、ユニバーサル…等など
ハリウッド映画の数々。

 今まで見たことも無い夢の世界へ誘ってくれた…、
私の一番のお気に入り・想い出の映画館でした。

 子供の頃、元旦にハリウッドのロードショウ映画を観るのは、我が家の恒例でしたが、
「エデンの東」 を観ている時、突然もよおして、冷や汗いっぱいで何とか観終わり、
途中の公衆トイレで用を足した時の開放感…、いまだに時々夢に出てくるほどの苦痛と喜びの想い出です。
 映画館はいつも身動きできないほど混んでいるのがあたりまえでしたから、
我慢せざるを得なかったものです。
「エデンの東」 というと、ジェームス・ディーンより先にこの事が頭に浮かびます。
       

 既述した、想い出の映画音楽…、50年代以前のアメリカ映画のほとんどは、
ここで観たものばかりですから詳しい説明は省きますが、一部をページの下へ…。
  
■ 「グレン・フォード」
 

この洋画専門館…、当時はオシャレで、
大きな映画館というイメージがあったのですが、
何年か前、親の墓参りの帰りに電車待ちの間、
数十年ぶりに入ってみたのですが、
何とみすぼらしく小さな映画館だろうと唖然としたものでした。

 
「ミッション・インポッシブル/2」 をやっていましたが、
あまりの懐かしさから、暗い館内を見回してばかりいて、
ストーリーなど頭に入らなかったものでした。色んな想い出が錯綜して、なぜかジーンときたものです。

 私の場合故郷を失ってしまったので、何かの行事以外ではなかなか戻ることもなく、
それも大抵はトンボ帰りですから、それまで映画館など入ったことがありませんでした。 

 ともかく、子供時代一番お気に入りの映画館でした。
 グレン・ミラーとジューン・アリスンに、ケーリー・グラントとデボラ・カーに、
そしてウイリアム・ホールデンとキム・ノヴァクに、ゲーリー・クーパー、ジョン・ウエイン、ヘンリー・フォンダ、
グレン・フォード…数えられないほど沢山のスターに出会った、想い出一杯の映画館でした。

  
■ 「東映映画」

3:東映専門の映画館
何と言っても時代劇全盛期でしたから、
ハリウッドに負けないほど充実した映画ばかりだったように記憶しています。
市川歌右衛門、片岡知恵蔵、が当時の両巨頭でした。
 「忠臣蔵」 は年末恒例で、役を交代しては毎年楽しませてくれました。
薄田研二、上田吉二郎、原健作…クセのある悪役がまた魅力的でした。
 ジョン・ウエインの勧善懲悪の世界がチャンバラ映画にもあった、良い時代でした。

 50年代はほとんど観ていますから、これも書ききれませんが、
中村錦之助、東千代の介が若手の筆頭で、「笛吹き童子」 が2人との最初の出会いでした。
というより東映時代劇との出会いだったかもしれません。
 「新吾十番勝負」 の大川橋蔵あたりが最後のヒーローだったと思います。

 私は、大友柳太郎の 「怪傑黒頭巾」 が好きで、彼の歯切れの良い語り口は魅力でした。
この映画館は観客の拍手の一番多いところで、怪傑黒頭巾もそうですが、
「鞍馬天狗」 では、ひばりチャンの杉作が新撰組につらい目に遭いそうな時、どこからかアラカン扮する
 鞍馬天狗が颯爽と馬で登場し…、やんややんやの喝采が館内いっぱいに轟いたものでした。
但し、知恵蔵扮する宿敵近藤勇は、決して弱いものを虐めないということがお約束だったようで、
安心して観ていられました。

 
直参旗本:早乙女主水ノ介が当たり役の市川歌右衛門、彼が演じた播隋院長兵衛は、
風呂場で白柄組の水野十郎左衛門に襲われるのですが、そのシーンでの彼のザンバラ髪が、
現在、私が後ろで止めているゴム・バンドを取ったときの姿とよく似ていて、すごく嫌なのです。
 …サラリーマンを辞めて、心機一転髪を伸ばしてチョンマゲにしてみたのですが、
鏡に映る風呂上りの自分の顔を見る度に、あの時の播隋院長兵衛を想い出します。
 …全く関係の無い話にいってしまいました。
 他にも、東映時代劇には想い出が沢山あるのですが、いつかどこかで続けるかもしれません。


  

■ 「東宝映画」


5:ヨーロッパ映画と東宝の専門館
東宝映画は、何と言っても50年代後半だったと思いますが、
「森繁の社長シリーズ」 が出色でした。
森繁久弥の社長、淡島千影の奥さん…久慈あさみだったかな?、
加藤大介の堅物部長、三木のり平の宴会担当、
主人公が小林桂樹、恋人が司葉子とか白川由美、
嫌らしい恋敵が宝田明、そして、バーのママが、新珠三千代とか淡路恵子でした。

 ともかく、宝塚の綺麗どころが沢山出ていましたから、映画に華というものがありました。
団玲子、中島そのみ、重山規子のかしましい3人組も彩りを添えていました。
私の好みは白川由美で、チョッとデボラ・カーを思わせる落ち着いた魅力がありました。
一般的には司葉子でしょうが…。

 大学時代の運動仲間に、司葉子が大好きだという奴がいて、彼は“シバコ”と呼んでいましたが、
そう読めない事もないなあ、と思ったものでした。
 彼は追浜でしたから、当然“裕ちゃん・命”で、日活映画についてはものすごく詳しく、
私とは、映画の話では噛み合わなかったものです。若くして他界してしまいましたが、イイ奴でした。
…ローレンス・ハーベイで、「善人は若死にする」 というのがありましたが、
そんな映画の題名を地でいったような男でした。

 
映画では、恐らく田園調布あたりに森繁社長宅があったはずで、
上京して東横線で通うことになって、大喜びしたものでした。
当時の憧れの山の手でしたし、今でも自由が丘あたりの喫茶店に入ると、
オバ様達の品の良い会話が、聞くとはなしに耳に入ってくるのは嬉しいものです。
当時はお嬢様風な娘がいたものですが、とんと見かけなくなりました。

 兄の高校が東京で、九品仏に下宿していましたから、
中学時代から自由が丘や渋谷にはくっついて、楽しい冒険をしたものです。
 現在の自由が丘は、チョッと外様の若者達に侵食されて残念ですが、
渋谷ほど乱れていないのが救いです。


 三船敏郎の映画もその映画館で観たのですが、特に鶴田浩二の小次郎と対決する 
「宮本武蔵」 や、二人が兄弟の忍者で活躍した 「柳生武芸帳」 という映画…最高でした。
 洋画では、「道」 が一番印象深いのですが、
フランソワーズ・アルヌールの魅力を知ったのもこの映画館でしたし、
数々のヌーベル・バーグ映画と共に、モダン・ジャズも聴いたものでした。
 ともかく、家から4〜5分という近場でしたから、嫌でもフランス映画も観てしまったものです。
       
 50年代、小さな町の映画館のどれも、常に満杯だったというのは今思うと凄い事ですが、
丁度私が上京した60年あたりから、映画業界も最盛期を過ぎていったのではないでしょうか?。
これは私の実感ですが、東映も錦ちゃんの「宮本武蔵/一乗寺下がり松の決闘」 あたりから、
リアルになりすぎて夢がなくなりました。
 洋画もそれまで当たり前のように悪者だったインディアンを気楽に殺せなくなって、
徐々にひねりの多い映画になってしまいました。

 
女性ファッションの世界も、ツィギーの来日あたりからすっかり変わってしまい、
銀幕のスターがファッション・リーダーという時代も終わりを告げたようです。
 その代わり、イタリア、フランスを始めとする新しいタイプの映画が盛んになってきて、
私が観たい映画が少なくなっていったものでした。
 女性が女性らしい服装をしていた時代…、
そんな頃を懐かしがるということ自体、年をとったということになるのでしょうが、
服装の変化は、言葉や行動をも当然変えてしまったようで、むしろその方が気になるところです。
…つまらない話でした。

 
■ 「椿三十郎」


錦ちゃんの宮本武蔵や、ハリウッドのサム・ペキンパーが真似た、
リアルな表現、血しぶきが飛び散るシーンは、
黒澤明の 「椿三十郎」 の影響だったと確信しています。
 当時の新聞に、黒澤監督がこの映画で新機軸を打ち出すために、
最後の仲代達也との決闘シーンにこだわって、いろいろ考えた末、
本物の豚肉を刀で切った音を映画に使った、と書いてありました。

 それまでの時代劇では、人を斬った時、“バサッ”なんて音はしなかったし、
ましてや血が飛び散るなどという、おぞましいシーンなど和洋を問わず、映画では見られなかったものです。

 ある意味、あの映画がきっかけで、活劇映画からロマンが薄れていったのではないかとも思っています。
 西部劇でひどかったのは「ワイルド・バンチ」…あのロマンティックが売物の
ウイリアム・ホールデン主演だったのに〜、何とも凄惨な映像にすっかり嫌気がさした事を想い出します。
あれも監督はサム・ペキンパーだったはずです。
現代ではどぎつい描写など当たり前になりましたが、だからこそ昔の素朴な映画が
懐かしく感じられるのかもしれません。
        
 「椿三十郎」 の前の映画:「用心棒」 のおかげで、無数のマカロニ・ウエスタン映画が生まれ、
クリント・イーストウッドは脚光を浴び、リー・バンクリーフがスターになり、「七人の侍」 は、
アメリカで 「荒野の七人」 をシリーズ化させ、スティーブ・マックィーン、ジェームス・コバーン、
チャールズ・ブロンソンをスターにしたのですから、黒澤監督は、世界の映画界に多大な影響を与え、
貢献した事は間違いありません。
 但し、晩年はチョッと美意識が先行しすぎて、映画としてはイマイチだったような気がしています。
 彼の絵コンテが話題になりましたが、あれほど細部にまでこだわるというのは、
私のようなぐうたらな人間には、とても真似られないないところです。

 「用心棒」 は、長野の映画館で観たのですが、その映画館には、
二人がけのロマンス・シートというのがあって、びっくりしたものです。
その後、ロマンス・シートというものを、ついぞ見かけたことがありません。
風紀が乱れるということで無くなっていったのかもしれませんが、今の時代なら復活しても面白いのでは〜。

  
■ 「Clark Gable」

 ついでながら、いかにも完全主義者らしい黒澤明の 
「蜘蛛の巣城」 という小難しい映画と共に、
いつまでもその残酷なシーンで忘れられない洋画があります。
西部劇の 「たくましき男たち」 と、ハリウッドの歴史スペクタクル映画の「聖衣」 です。
「蜘蛛の巣城」 での、城主役の三船敏郎が全身に無数の矢を浴びる壮絶なラスト・シーン。

 「たくましき男たち」 で、クラーク・ゲーブルの弟役のキャメロン・ミッチェルが、
木に縛られた状態でインディアンの矢が何本も刺さっていたシーン、
西部劇としては相当面白い映画でしたから、特にこのシーンだけがより残酷に映ったものでした。
 そして 「聖衣」 での、ビクター・マチュアが、ローマ兵?によって、弓矢で死刑になるラスト・シーン。
ビクター・マチュアは、当時のハリウッド男優のなかでは相当のマッチョ・マンでしたから、
「荒野の決闘」 などの西部劇より、こういった時代物のほうが似合っていて、
ブラウン・ローチの 
「デライラ」 を聴くと今でも彼のスクリーンでの雄姿が頭に浮かぶほどです。
喋る時の口の動きや、優しい目に特徴のある俳優でした。

 兎も角、これらのおぞましいシーンは子供心に相当こたえてしまい、ストーリーなどは
とうの昔に忘れてしまったのですが、残酷なシーンだけは今でも忘れられなくて、困ったものです。
 
■ 「続 荒野の七人」


 
上京してからは、もっぱら渋谷の文化会館、
日比谷映画街が私のテリトリーになりました。
学生時代、彼女とのデートは、まず日比谷、西銀座デパート、
銀座と気取った場所でしたし、喫茶店は当然同伴喫茶でした。
渋谷にも60年代初めは、沢山の同伴喫茶があったものです。

 渋谷東映の中地下にあった
「小島屋」、センター街の 「白馬車」 「田園」 「パイン」 「マリンバ」
栄町通りの
「路茶」 「シオン」 「ボンソワール?」 「牡丹」…、懐かしい青春の想い出の場所です。
…いつまでたってもこんな事ばかりしっかり憶えていて…馬鹿みたい!。
 渋谷を歩く度に、昔、ここにはこんな店があったとか、つい想い出してしまいますから、
それも仕方ないかなと思っています。
 常識で考えて、数十年前の姿をそのまま残している繁華街なんて、ある方が変なのかもしれません。

 今でも、同名の店も1〜2件は残っていますが、同伴喫茶でない事は間違いありません。
お気に入りだった喫茶店:
「ニュー・パウリスタ」 の前に、「サバラン」 という、
安くておいしい洋食屋さんがあったのですが、少し前に、違うビルの3階で同名のレストランを見つけて、
懐かしさから入ってみました。
きっと同じ店なんでしょうが、訪ねてみるきっかけが無いまま食事だけして帰りました。
 当時は粗末な作りの2階建てで、いつも大きく入り口が開け放ってあり、学生にも入りやすい店でした。
 
 最近また渋谷の懐かしい店が取り壊されました。
美美薬局…、1階が薬店、
2階が競馬ファン専門の談話室という変わった建物でした。
実はここの店主が馬主でもあり、私が競馬に興味をもっていた頃、
ミミオブパールという競走馬が中央競馬で活躍していました。

“今日は、大川慶次郎氏が有馬記念を予想します。
”なんて書かれた立て看板が栄町の通りに出ていたものです。
この談話室の名称も有馬記念でした。

 でも、この店の特徴はそれだけではないのです。
外壁に “恋文横丁ここにありき” と書いてあり、建物の横の小路を抜けると道玄坂へ
出れるという懐かしい場所なのです。昔の恋文横丁はもっと入り組んでいましたが〜、
ここの店主の昔を偲ぶ気持ちが伝わってきて嬉しかったのです。
 新しいビルが次々と建ち、想い出の場所が少なくなっていくのを目の当たりにするのは淋しいものです。
       
 映画に戻りますが、忘れられない映画:「アラビアのロレンス」…、日比谷映画の真紅の緞帳が下りたまま
テーマ・ミュージックが長々と演奏され、いやがうえにも期待感が高まったイントロ〜。
この映画、途中でトイレ・タイムがあったことでも忘れられません。
ピーター・オトゥールより、助演のオマー・シャリフのほうがずっと良かったという映画でもありました。

 「ウエストサイド・ストーリー」 は、確か有楽町のピカデリーでしたし、
全ての007シリーズを必ず観ている私ですが、渋谷以外でも 「007サンダーボール作戦」 は、
新宿のどこかで観た覚えがありますから、上映時間にピタッと合った時など、
いろいろな所で相変わらず娯楽性の高い洋画は観ていたようです。

 天皇杯で熊本へ行ったとき、帰りの便を待つ間、夜の中洲で 「ドノバン・サンゴ礁」 を
一人で観たことなどは、映画の良し悪しに関係なく、いつまでも当時の状況と共に忘れられないものです。
  
■ 「007 /危機一髪」


 60年代以降は、リバイバル映画が多かったというのも特徴で、
ハリウッドが斜陽化した証拠なのでしょう。
一方で、冷戦時代にピッタンコのタイミングで、

「007シリーズ」
 が登場し、「0011ナポレオン・ソロ」 
「サイレンサー沈黙部隊」
 とエンターテインメント性の高いスパイ映画も盛んでしたが、
ベトナム戦争を通じて、大きく価値観が変わっていきました。

 アメリカでもニュー・シネマが台頭し、それまで夢の世界だったアメリカ映画も、
徐々に等身大のものに変わっていったようです。

 フランス映画嫌いな私でしたから、当然生活観のあるものは苦手で、
私自身、生活に追われていたという事情もあって、段々映画館から足が遠のいていった、というわけです。
とは言うものの、
「真夜中のカウボーイ」 「卒業」 「スケアクロウ」 などもちゃんと観ていて、
ダスティン・ホフマン、アル・パチーノ、ジーン・ハックマン達は、大いに気に入っている俳優ですから、
苦しい中でも、それなりの映画は観ていたことになります。…でも、基本的には苦手なジャンルの映画です。

 ジーン・ハックマンは、
「フレンチ・コネクション」 のポパイ刑事がドンピシャの役柄で、
この映画は刑事モノでは出色でしたが、その後あまりにも沢山の映画に出すぎて、
損をしているような気がしています。

 最近の歴史スペクタクル映画の復活をみると、映画にしか表現できない大きなスケールや、
娯楽性が蘇ったようで懐かしく、本来、映画とは夢を見せてくれるものだと思っている私としては、
チョッと応援したい気分になっています。

  ● 「ハスラー」
 ずっと青山に住んでいた関係で、私のお気に入り映画館といったら、まず渋谷の文化会館でした。
 パンティオンは、緞帳の色が赤い事、一階で、しかも天井が高過ぎて、散漫な気分がして
あまり好みではなかったものでしたが、何やかやと、最近までごひいき映画館だったことは間違いありません。
 7階の名画座、屋上のプラネタリウムやアーチェリーの遊技場は、よく利用したものです。
 5階の東急映画は、一番のお気に入り映画館でした。
丁度良い大きさ、緞帳の淡いブルーがなんとも魅力的でした。
映画館には適度なヒューマン・スケールというものがあって、私はここが一番居心地が良かったものでした。
        
 
いつだったかは忘れましたが、ここで初めて、映画の前にコマーシャルが入るという、
悪しき慣習の始まりを経験しました。
 今ではすっかり当たり前のようですが、それまでは、館内案内、ニュース、
予告編からすぐ本編へ入ったものでしたが、映画館でコマーシャルを見させられるとは…
大いに不満だったものです。本格的テレビ時代の到来とほとんど同じ時期でしたが、
今でも入場料を払ってまで、テレビと同じコマーシャルを見せられるのでは、映画館をやめて、
ビデオで観たい気持ちが解るというものです。


 
 テレビと言えば、最近特に癪にさわる事があります。
 バラエティ番組などに顕著なのですが、クライマックスになったところを見計らって、
突然コマーシャルに切り替わることです。
画面がアップになったり、モザイクで興味をひきそうなところを隠したら、もうコマーシャルが入るな、と、
最近では予測ができるようになりましたが、観ている者の気持など、全く考えていない手法です。
 いつの頃から、こんな事になったのか…、番組の企画も、企業や商品の魅力も
無くなったからかもしれませんが、いい加減改めてもらいたいものです。

 淀川長治さんがやっていた、「日曜洋画劇場」…今でも忘れられない良い番組でしたが、
これが素晴らしかったもう一つの理由が、コマーシャルの見事さでした。
 レナウンとサントリー…あと、一社あったかもしれませんが、本編同様にコマーシャルも、
ゆったり時間をとって楽しいものばかりでした。
今でも、“テニス コートに秋がくりゃー〜イェイェイェイェ〜イェ〜イェ…〜〜”と、
可愛い女の子が弾んでいたシーンや、“〜チキコン チキコン〜〜”
…サミー・デイヴィスJr.の、シャレたスキャットや顔が浮かびます。

 その後、5秒スポットとか、連呼形といろいろあって、時代も変わり…そして現在がこの有様です。
 他局より少しでも視聴率を稼ぐためと、刺激的なことばかり狙って、結局、
どこをひねっても同じような番組、そして、コマーシャルもまたしかり〜。


 私が、テレビをあまり観たくないのは、
番組内容ももちろんですが、人を小ばかにしたコマーシャルには、ストレスを感じるからです。
とんだところへ話がいってしまいましたが、 皆が力を合わせて、
そこそこ食べれるように頑張ってきた過程で、心のゆとりやロマンを、そして他人を思いやる気持ちを、
どこかへ置き忘れてきたのかもしれません。
…これまたつまらない話でした。
 
■ 「太陽がいっぱい」


 文化会館も無くなり、高輪に、六本木に、ヨコハマにと、
シネコン作りが盛んです。
でも、映画といったら、まず日比谷か渋谷でなくては…
というのが、“通”というものです。
なんと言っても映画が最高の文化だった時代を経験している私としては、
近いうちに渋谷に、度肝を抜くような見事な第二文化会館ができる事を期待しています。

 80年代頃から、渋谷の街は徐々に魅力の薄い街に変わってきています。
魅力を取り戻すのは簡単ではないはずですが、今の、どこにでもあるようなトレンディな
スポットとは違って、大人がもっと落ち着いてくつろげる “小粋な街” に再生して欲しいものです。
 

■ 「渋谷東急文化会館」


 …いくら愛着があるからといって、
街づくりにまで話が及んでしまいましたから、このへんで…。
 相変わらず思いつくままの、散漫な文章になりました。
 


 

   
  「洋画館にて」



  
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