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ウラハラ通信2

瑞穂さん

確かにここ何年かの自分にとって
「コトバ」と「踊り」は
距離を縮めつつあります。

小学校の頃、
私は国語の先生になりたかったの。
一番得意だったから(笑)

自分を表現する、という明確なツールを持たない
子どもの頃って、何か一つ得意なことを見つけると
それが助けになることってありますよね。
口が重くて、体も重く、動きも緩慢だった私にとって
文章の表現力や言葉を使えるチカラをわずかでも獲得したことは
とても大きなことでした。

それが身体を伴った「演劇」という作業に自然に発展していき、
あるときにコトバとカラダがまとまりを持たなくなって
カラダに立ち返ってったんだけどね。

10数年前、ある芝居の稽古をしていた時、
自分が「見せるための」演技しかしていないことに
気づかされてしまった。
コトバや動きに必然性が伴わなくなってしまった。

それを演出家にかなり厳しい言葉で指摘され、
何も言い返すことが出来なかった。
というより、その頃は個人的に精神的な危機もあり
離人感が常にあった、と今は語れるんだけど。

私にとって当時芝居は生きていることの確認作業のような側面もあったから
それは私の「精神的な死」に相当した。

もう自分には表現をすることはできない
何もできない
これからどうやって生きていけばいいんだろう
…そんな思いの日々でした。

しばらくしてからふと「ぴあ」のはみ出しで見た
岩下徹氏のWSに行き始めた、
というのが、カラダに立ち返るきっかけとなりました。
生き返る、というほうが正しいかもしれない。

そこから今の自分へと続いてくるの(大分はしょってる)ですが、
「ダンス」って結局「キエモノ」であり「ナマモノ」だから
コトバで残す、ということの大切さを感じ始めたの。
それに「ダンスセラピーって何よ?」って質問にも
うまく答えられなかったことが多かったしね(笑)

ダンスをコトバにするのはとてもむずかしい。
コトバにできないからこそ、踊るわけだし。
けれど踊りの質感やイメージは
まずはコトバで伝えていくしかないから
WSに来る方にとって、特に踊りは踊ってみたいけど
恐い感じがする…という方には
こちらが使うコトバ、伝えていくコトバが
とても大きなウェイトを占めています。

だからできるだけ「生きた」コトバを使いたい。
今すぐにでも感じられるカラダの感覚や実感を
コトバにしていくことから、
カラダへの気づきは始まっていくものだという気がします。

カラダの方が実は何倍も早いんだよね。
気づいていることが。
だからこそ、それを意識化することにより、
気づきが単なる思い過ごしでなくなったり、
自分は今こういう状態なのかな、ってことを感じることができたり。
それは自分への守りにつなげることもできると思う。

ましてやダンスセラピーでは
そのコトバのチカラというのが
場の安心感や安定感にもつながっていく感じがあって。
他の人のシェアを聞くことも、時にはつらいけれど
時にはすごくチカラになることもあるし。
話すは放す、に通じたりするし。

カラダから離れていないコトバ。
リアルさを持ったコトバ。
痛みから出てきたコトバ。
歓びから出てきたコトバ。
分かち合えるコトバ。

瑞穂さんも仕事柄、
コトバの扱いにはいろいろと心を砕いていらっしゃることと思います。
瑞穂さんの言葉は的確だし、安定感があるよね。
それは話しても書いたものでもそう思う。
たぶん仕事上スキルを磨かなくてはいけない部分もあったとは思うけど、
カラダを使うようになって自分のコトバが変わってきた…
っていうのはあった?
(瑞穂さんのカラダの在り方はすてきに変化してきているものね)
またカラダについては最近どんなふうにとらえているのかな。

なんか質問してますな、アタクシ(笑)
失礼。
趣味の一つに「質問」って項目があるので(笑)

つらつらいきましょう。
次回のお題も決めずに。
もちろん答えてくれても嬉しい♪


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