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ウラハラ通信5

「はだかのカラダとはだかのココロ」


キョウコさん

2004年がやって来ました。

昨年の私はずっと時速140kmで走り続けた風だったので、
止まった途端ぶっ倒れるに違いないと思っていましたが、
予想に反して不思議と快調なお正月でした。

> カラダはコトバでだませない。

ほんとにそう。
カラダはそんなにヤワでも甘くもありませんね。

たとえば、恋のような場合でも。

どう考えてもあの人と上手くいくはずない、
だってライフスタイルが違い過ぎるものと
意識的に制動装置をはたらかせてみても。
カレにはもっと若くて素直な女性がお似合い、
好きになっても傷つくだけと
繰り返し言いきかせても。

すでに恋に堕ちてるカラダは騙されてくれない。
コトバで頭をいっぱいにしながら、もう走り出している。
知らず知らずのうちに。

盛り上がる気持ちをコトバで制御しようとすれば、
別のカタチでカラダに現れて来る。
しぐさや振舞い、発する空気が、自ずと表現してしまう。
さもなければ、抑えこんだエネルギーは別の方向へ流れていく。
そういうことって、誰しも経験ありますよね。

もちろんここで使っている「カラダ」という言葉は
単に「肉体」を意味するのではなく、
無意識の源泉であり表象である身体なのだけれど・・・

ところで。
お正月に読んだ谷川俊太郎の詩集『夜のミッキー・マウス』(新潮社)で、
はっとするフレーズに出会いました。
「よげん」という詩です。
本当は全文引用したいぐらいですが、おそらくそれはルール違反なので
もっとも心奪われた一節のみご紹介します。

(引用)

 はだかのからだで
 はだかのこころをかくしながら

(引用終わり)

この部分は愛をささやく人達のことをうたっているんですが、
なんとも痛い、切ないではありませんか。

カラダははだかになっても、ココロははだかになれない。
愛する人に対して、本当はココロもはだかになりたいのに
取りあえずカラダしかはだかになれない。

普段は、見ないほうが/見せないほうが生きやすい。
だから服を着せて守っている。
私たちが生きているこの世界では、
はだかのココロなんて自分でも見たことないかもしれない。
存在を意識する機会もない。

けれど、はだかのココロというものが在るとして、
それを少しでも自覚したい、取り込んでいきたいと願うなら。

結局、カラダに聞くのが一番なのでしょうね。
わからなかったらカラダに戻る。
まだ自覚していないこと、意識化していないことがカラダには在る。

そういう意味では、
はだかのカラダははだかのココロを「隠す」のではなく、
「映す」とも言えますね。

カラダもココロも、コトバも。
はだかが美しくなれたらいいなとつくづく思います(笑)


★お正月に読んだ本:
『夜のミッキー・マウス』(谷川俊太郎/新潮社)
『憲法なんて知らないよーというキミのための「日本の憲法」』(池澤夏樹/集英社)

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