冨吉 豊 の世界をあなたに・・・

近頃不思議に思うこと

END

■近頃不思議に思うこと

神よどうかあなたに対する私の行った小さな冗談の数々をお許しください
そしたら、私もあなたが私に行ったこの一つの大きな冗談を許します。
― ロバート・ルロスト

 ギリシャ神話の「ミダス王」の話をご存知ですか。
 触れたもの全てが金になるようにと神に祈った結果、願いが受け入れられ、庭に出てリンゴに触れた瞬間に金になり、その素晴らしさに驚き感激しているところに、最愛の娘が庭に走りこんできて、制止する間もなく愛してやまない自分の父の首に両手を広げ跳び付いた瞬間に、その娘は金になってしまうという話です。そこで、王は、この世の中には金よりも大切なものがあるのだと解るという話です。
近頃この話を読む子供たちの多くが、まず最初に尋ねることがあるのです、「先生、この話本当なの、本当に起こったことなの。」「きみはどう思うの。」と尋ねると、「うん、解からないや。本当じゃないと思うけど。だけど、こんなのないよね」との答えが返ってくるのです。
どこか、ポイントが違うんだけどなと思いながらこの子達とどのように付き合っていったらいいのか戸惑ってしまうことがあるのです。なぜ「不思議」だと言ったかというと小学生から高校生まで同じような傾向が続くということです。「だけど、素晴らしい物語じゃないか」と言っても、きょとんとした眼差しで、何を言われているのか分からない様子ですし、本当の話ではないんだったら読む必要もないし、興味もないと言い張るのです。

このことはジョークを読んだ時にも起こるのです。
ある人が、小さな航空会社の飛行機に乗ります。その当時、その航空会社金がなく飛行機も古びたものを使っていました。飛行機に乗り込んでいると、その飛行機の機長が突然コックピットから怒鳴りながら出て来るのです、「俺にはこんな飛行機は飛ばせない。エンジンの一つが壊れているというのに会社側は変えようとしないいんだぞ!」機長は降りてしまいます。そこで、アナウンスがあり、乗客は待機するため降ろされます。約1時間後、飛行機の準備ができたとアナウンスが流れ、乗客は再び飛行機に乗り込みます。ある人が、スチュワデスの傍をとおるときに「新しいエンジンが手に入ったのですか」と尋ねます。そうすると、スチュワデスが「いいえ、だけど新しい機長が手に入りましたから」と答えるのです。「は、は、は!」と笑えるはずでした。
ところが、まず、「こんなの絶対にないよ。こんな飛行機飛ぶわけないジャン!」から始まっていきます。冗談で言っているのかと思うと、本人は真顔なんです。「これはジョークなんだよ、解かるだろ。面白いだろ!」と言っても、「どこが面白いの?まったくでたらめジャン!こんなこと絶対にないよ!」と聞く耳を持ちません。
5,6年前、最初にこれを経験したときはこの子は、今までにあまり本を読んだり考えたりしてこなかったのだろうと思っていました。しかし、1回が2回、2回が3回と続くうちに何がどうなっているのだろうと不思議になってきたのです。
数学を嫌いな子が、「買い物のおつりの計算ができればそれでいいじゃないか!なんで数学なんか必要なんだ。生活のどこを見たってXもYも使ってないじゃないか」と言います。「歴史なんて過去のことジャン、何で必要なの。俺たちには何も関係ないし。年代なんか覚えたってなんかの役に立つわけないジャン。」これらの「タワゴト」に対して、多くの先生達は大体聞き流すのが普通です。どう説明したって、どうにもなりそうもないしなと思うのが普通でしょう。もう少し大人になったり、経験を積んだりしたら自然とそんなこと言わなくなるだろうからと。
「目に見えて、触れることのできないもの」は全部作り事で、大して重要ではないし、また、それに興味も覚える必要もない。それ以外は、受験やテストのための「勉強」で強制させられる時以外は、全然意味のないことだと言い切る生徒が増えてきました。そして、そのように割り切って生活をしているようです。


1970年代、ベトナム戦争真っ只中のアメリカ国内で "compartmentalization of mind" とか "thinking cap" とかいうものの考え方が打ち出されていました。「精神の個室化」とか「考えるための帽子」とか訳しても差し支えないのではないかと思います。戦争は泥沼化し、正義とは何かと問うことすらばかばかし思われるくらい社会は混沌としていた時代です。愛国心とか自由主義万歳だけでは前進も後退もできなくなっていました。そのころ一つのの問いがありました。「空爆に行く兵士は、全てを焼き尽くし、全てを破壊してしまうような爆弾をなぜあれほどいとも易々と投下し、意気揚揚と帰還し、自国に帰り、妻や恋人には偽りのない様子で心を込めて "I love you."と言えるのだろうか」ということでした。「戦争ってそんなもんだよ」だけでは解決できないものがアメリカ社会の中に吹き出てきていました。人間とは何か、とりもなおさず、教育とは何か、何を学び何を善しとするのかのに対する疑問が噴出してきていた時代です。
それは、個人を一つの全体として眺めることができなくなってきているのではないだろうか。病気をしても、胃が悪いと言えは胃の事だけを考える。そして、それだけを治療する。治療というよりも、その器官を車のパーツを修理するかのごとく修理をする。全体との関わりではなくて、その器官だけに限られ、それだけに的を絞って治す方法を考える。同じように、私たちの精神(心)も、部分部分だけでしか眺めていないのではないだろうか。感情といったら、感情だけ、意志決定と言ったら、その部分だけというように。身体器官を扱う医者が、精神を扱う医者の分野には決して入り込まないように。
教育の分野では、この授業のときはそのための「考えるための帽子」をかぶって授業を受け、また、ほかの授業を受けるときは異なった「考えるための帽子」をかぶって授業を受ける。その教室を出たり、自分の時間に浸っているときはその帽子は脱いでおくという具合に。今は「考えるための帽子」をかぶる時間ですよ。そして、それがすむと、その帽子を脱ぎ、何もなかったかのようにまったく違った世界へと行くことができる。「ああ、しんどかった」とその帽子を脱ぎ、自分の時間が持てる喜びを噛み締めるのです。今は考える時間ですよという時には、その帽子をかぶり何とか考えようとし、それが終わるとさっさと脱ぐ。誰一人としてその不思議さにまったく驚かなくなってきたのだと。

一つの事件が起こります。「事件」とはその個体が、身体的であれ精神的であれ、自分自身の意識の変革を迫られる形で巻き込まれて行くことを意味します。そうでない限り、そのことは「噂」でしかありません。誰かが、できちゃった結婚をしたとかぐらいのものです。ニューヨークの貿易ビルに飛行機が突っ込んだにしても、1年も過ぎるとゲームの一こまぐらいにしか映らなくなるかもしれません。その事件が起きている現場が遠くにあったり、すぐに通り過ぎていってしまったりすると意識から消えていく時間も早くなっていきます。今は、爆撃機は高射砲の届かないような途方もない上空からある程度的確に爆弾を投下できるといいます。その分だけ現場からは遠くになってしまいますし、ジェット機のスピードで爆撃地「事件の現場」に近づき、そこからそのスピードで遠のいたとしたら、「事件」の意識が一体どのくらい長く残るのでしょうか。
「事件」は、爆弾が爆発したところで起きているのです。身体や意識が破壊されるところで起きているのです。一つの目的と、もう一つの異なった目的が衝突(爆発)した所で起こるのです。「目的を持つ」とは自分の意のままに何かを操れるようになりたいと努力する事に他なりません。自分の身体を扱う運動能力の開発から、自分の意識を操作する知的能力の開発まで。しかし、この目的に「他者」が絡み、そこに「性」が入り込んでき、「利害」が絡んだりしてくると途端に目的の絡み方も複雑になってきます。誰が何をどのように操作しようとしているのかがとても見えにくくなってきます。戦争はこの絡み方の複雑さの最たるものであることには違いありません。うまく絡み合わさってくれれば、ライバル同士になりますが、ずれると衝突が起き火花が飛びます。それはまさに紙一重の違いだといっても言いと思いますが、同じ火薬で花火を上げるのと、大砲を撃つのとの違いは誰が見ても歴然としています。
そして、人には素手での衝突、剣を持っての衝突、銃を持っての衝突というように、だんだんと「事件」の起きている現場から、遠くへ、遠くへと離れて目的を達成するような物を作り上げて来た歴史もあります。誘導装置付のミサイルなどは最先端を行く物に違いありません。それでもなおかつ、どんなに遠くから操作しようとも、爆発している現場はあるのです。そこでは人間といわれる生き物の何たるかがこの上なく問わているのです。言葉から生物兵器まで、人間の作り出した物の質も問われることにもなるのです。作ったものから作り返される。この現実を避けて通ることはできないのです。「お金」、(これは人の作ったもので最高に面白いものかもしれませんが)、を手にして、明日からの生活を変えないでいられる人は人間ではないかもしれませんね。自分の時間の使い方や考え方、人生観、対人関係もそれに引きずられて変わっていくことになります。また、現代は、遠隔操作とスピードの時代です。遠くからいかに上手にものを操作できるか、そして、そのスピードを競うことが経済発展と繁栄のバロメータになってきています。留まってしまったら、置いていかれる。置いていかれたら、すべてを失ってなってしまうのではないかとの恐怖が付きまとってしまうのです。
事件は常に起きているのに、それをとても遠くに感じたり、そして、また、早く通りすぎるがゆえにそのことがすぐに曖昧になってしまうのです。曖昧なままで済めばいいのだけれども、意識的に作り上げた芸術的な曖昧さや、許し合えるもの同士や、理解し得るもの同士の曖昧さでない限り、曖昧さは人の心に怒りを溜め込んでいってしまいます。なぜなら、「私」というのはいつでも何かと向き合って生きていて、その向き合ったものからは「私」を満足させてくれるものを求めて生きているのが人間のあり方だからです。
 人が考えるということは、常にこの「事件」、または、接点、衝突、融合と呼んでも言いと思いますが、を考えることに他なりません。「もっと考えなさい」と言われることは、「事件の現場に帰りなさい」、「私と世界の接点に帰りなさい」と言われていることと同じことです。そこでは生あるものの火花が散っているのだと。これを疎かにすると生きるというのは非常に空虚なものになるのですよ、といっているのと同じことです。H. S. Sullivan (アメリカの心理学者)は長年心を研究した経験からこう言っています。「世界が意味のある人と人との関係として、また、人々の器官組織の織物のように広がる時のみ、知識は本当の意味を持つようになり、そして、学ぶことは自分自身を将来に展望させるための真剣な取り組みになり得るのだ」と。世界(私を取り巻く現実)との関係が自分自身の器官のように広がっていない限り、人は知識にも学ぶことにも興味は持てないのだと言っているのです。自分と世界の接点との現実感が希薄になると、人は生きる屍になるのだと。
 人は自分を見失わないために、又、生きているという事を実感するために、この希薄になってしまう「事件」と私との距離をどのように処理し、解決してきたのでしょうか。あまりにも身近に有って、普段は気づくことのない「話す力」すなわち、「物語る力」を借りて解決しているのです。物語る力ほど、人を人としてならしめているものはないのではないでしょうか。ライオンが爪楊枝片手に、今食べたばかりの歯に詰まった肉片をほじりながら、この前出会ったオスライオンの顔立ちの良さや、この前チラッと見かけたメスライオンのお尻のしまり具合などを話すとは思われません。
人が人であるのは、自分の過去(歴史)を今も自分の中に生きているものと捕らえる力があるからにほかなりません。又、歴史というのはただ単に起こった事実(事件の羅列)からなっているのではなくて、事件と事件の間をどう物語るかによってなっているといっていいでしょう。History、Hi-storyギリシャ語やラテン語の意味は、「尋ねることによって知る」という意味で、story(ストーリー)物語るとか、飾り立てるということです。人の意識の変革を迫られることが確かに起きたのですね。その時を境に以前の生活には戻れないようなことが起きたのです。そして、又、それを曖昧なままにしておくと、人の一生が、又、人を取り巻いている世界が全部台無しになってしまうようなものだったのです。

人は何かを渡って人になったのです。死ぬときですら「三途の河を」渡るといいますよね。生れ落ちた「個体」をその「個体」のままにしておいて人は人にはなれないのです。アマラやカマラのように狼に育てられたら狼のように育っていきます。人はそれとは違う、決定的に人になる「何か」を渡るのです。それは言葉が織りなす「物語の河」です。
産道を渡り、泣きながら光の中へやって来たのです。しかし、そこは大きな、大きな「物語の河」でした。目にするものは新しいのだけれども、耳に入るものはどこかで聞き覚えのある音なのです。とっても柔らかく、肌にぴったりとくる感じでとても懐かしいのです。引っ切り無しに、人が来て、優しい眼差しで話し掛けてくるのです。そして、ある日、その人と「同じ音」を繰り返してあげたときのその人の喜びようといったらどう表現していいものやら。その喜びの中へ参加していったのです。
「ミダス王」と「新しい機長」の話を読んでおかしいなと思った大学生以上の人に質問をします。「あなたがここ一ヶ月間、いや、二、三ヶ月間に覚えたり、意味を確かめた新しい言葉を挙げてみてください。何語ありますか?」30単語あったら、あなたの職業は何ですか、出版関係ですかと尋ねてみたくなるくらいでしょう。
考えてみてください。一歳から三歳までの子どもの覚える新しい言葉の数を。それも、強制なしに。ただひたすら回りのものに興味があったのです。なぜなら、そこに誰か喜んでくれる人がいたからです。自分を取り巻いている世界が何を要求しているのか、また、そこから何をほしいのかのイメージを、「自分を取り巻く世界の絵」をそれだけ真剣に掴み取りたかったのです。大人はもうそんなもの解っていると思っているのでしょうか。それとも、「人生ってこんなものだよ」と諦めてしまっているのでしょうか。人として育つための命(言葉)を回りの物、また、者からもらい、そして、お返しに、それらに自分の言葉で命を吹き入れて人の歴史に参加させるのです。このようにして空に散らばる星に「オリオン」と名づけ人の物語に広大なロマンを持ち込むこともできたのです。
そして、小学校に入る前に「言葉」を基本にして「自己を変革」してもいいというだけの力を持つに至るのです。自分を外から眺めるだけの力を手に入れ、そして、人の歴史に仲間入りする準備ができたと認められるだけの抽象力(言葉)を手にしていると判断されるのです。「自分」が「自分」のままではいられない世界に足を踏み入れていくことになるのです。母が乳房で与えてくれたもの、父が抱擁で与えてくれたもの、回りが微笑みで与えてくれたものとは異なる質の「物語の河」を渡ることになるのです。好きとか嫌いとかでは解決されない質の流れに身を浮かべることになるのです。
そして、また、小学校に入り、ある意味の「強制的勉強」が始まるのです。強制的ということは「自分以外の世界があることを認めろ」といっている世界に足を踏み入れるということです。「自分」が「自分」の殻に留まってしまうことの危険性を人は歴史を通して学んできたからに他ならないからです。そして、その殻を「自分」だけで破ることの難しさを知り尽くしているのも人が人であることの証でもあるからですからです。大きいところでは、宗教や政治の独断性。小さいところでは、一度ついてしまった習慣。この悪い週間から足を洗わなければと思いつつできないで苦しんでいるのも人です。ないようで七癖あるのだと、無邪気に笑っていられる苦しみから、専門医を通したり、「自己」を忘れさせてくれるものか、「自己」を越してくれるものを見つけない限りその苦しみから逃れられないような苦しみまで様々です。
この「勉強」を始めることを、川を渡ることにたとえてみましょう。いろいろな渡り方があります。浅かったら、歩いたり。狭かったら、跳んだり。暑くて遊び気分であったら泳いで渡るのも楽しいものでしょう。対岸が見えないくらいだったら、手こぎのボートで、また、金持ちでちょっと見せびらかせたかったら、かわいい女の子でも乗せたモーターボートなどはいかがなものでしょうか。水がいやだったら、橋を見つけて橋でも渡りますか。
よくやらされるのが、まず、歩いて渡ることです。頭のいいといわれる子も悪いといわれる子も渡ります。流れは足にまとわり付き、心も体も開放され嬉しさで一杯です。意味を探さなければならないような言葉なんてどこにもありません。水かけっこをする子、はたまた、川に入る前は飲んではいけないといわれた水をおいしそうに飲んでいる子。個々がそれぞれの性格に合った渡り方をし、眺めている方もいろいろな個性を楽しめるのです。先生も、「ほらね、みんなで渡るとこんなに楽しいものなんだよ」と言うし、子どもたちの目も生き生きとしているのです。
そこで、紙とメジャーを持ち出して、「じゃ、ここで川の深さや幅を測って何が出来るか考えてみましょうね」と言った途端に状況は一変するのです。個性が消え、「頭」が鎌首を持ち上げ、子どもどうしはギクシャクしだし、先生の方も「ギクリ」とするし、心にぐっと「重い」ものが入り込んでくるのです。普通に大学に行き、先生というのを普通に職業として選んだ先生は、「ああ、またか」といやな感じになります。また、苦労なく渡ってきてしまった先生は、「なぜ、こんなことでつまずいているのか」が解らず、この子の頭が悪いのだと責任を子どもに押し付けてしまうかも知れません。しかし、先生になりたくてなった先生は、身を切られる思いがするはずです。自分が通ってきた道の険しさを思い出すからです。直接目にできる訳でもなく、肌にも感じられない世界、「抽象化」された世界を考えることの難しさを、そして、それをまとまった形で伝えることの難しさをまざまざと思い出さされてしまうからです。後は、ああでもないこうでもないと祈るような気持ちで進む意外にないのです。
「抽象化する」というととても難しそうに聞こえるんですよね。自分の生活の回りにはなくて、X軸やY軸に貫かれていたり、「形而上学的」とか聞いたこともないような世界にあるような。それこそ釣銭が計算できれば「数学」はやる必要がなく、日常生活に「昔の歴史」なんて何の役にも立ちはしないですよね。「国語」なんて「正確な答え」が出るはずはないんだから適当でいい。「まったく、そうですよね」って賛成したくなりませんか。なぜこんなにいろいろなものが自分の日常生活からかけ離れていると感じるのでしょかね。
では、あなたが次の話の訓練生だったらどうしますか。死体や死体解剖に携わる法医学生を育てるための訓練にあたる訓練医が訓練中の生徒に向かって「隣の部屋の死体から、「口」を切りとって持ってきなさい。」と頼むのです。「死」は「生」を映す鏡であること。そして、「生きる」ということには明確な「答え」なんて早々あるものではないということ、それを踏まえて「死」を真摯な気持ちで受け止めなければならないことを教えたいがためにこの訓練医はこのことを生徒に頼むのだそうです。すると、頼まれた生徒はそれは簡単なことと勇んで出かるのです。しかし、死体を前にしてはたと困ってしまうのです。日常いつも使っている、解りきっているはずだった「口」がどこの部分なのか解らず、どこを切り取って持っていっていいものやら途方に暮れるのです。それは「物」ではなく、いろいろな器官が集まってできたあることを果たす機能につけられた名前なのです。
House(家)と、Home (家庭となったり故郷となったりしますが、こちらの単語を日本語にするのはかなりの複雑さが伴う)の違いはどうでしょうか。ハウスは構造として目に見えますが、ホームは目に見えたり触れたりは出来ません。だけと私達の生活の真っ只中にあります。家には家を作る難しさがありますが、家庭を創る難しさとは質を異にします。建設物としての「家」は、直接目に見え触れることができます。その素晴らしさや、それに費やされとた時間や苦労、また、人の匠の素晴らしさも目の当たりにできます。しかし、「家庭」や「故郷」の場合はそう簡単ではありません。人の内側に秘められた「想像力」という力でしか見ることのできないものを持っているからです。人と物との絡み合いではなくて、人と人が絡み合ってできている世界の広がりを持っているのです。何かを作り上げて解決していくというよりも、意味を深め理解をし合うことによってしか見えてこない、又、楽しめない世界が広がっているということです。
人が本当に欲しがっているものは、houseではなくてhomeだといわれます。どうゆう目的で、なぜここ「地球」にいるのかは解からないけれども、人はいつも自分のhomeを捜し歩いているのだと。ここでは手にできる「物」を見つけようとしても、そして、また、「答え」になるような「解答」を探そうにも雲を掴むようなところがあるのです。ここには、人の持つこの不思議な力を「理解」することからしか出発できないものが広がっているのです。あるといえは在るような、ないといえばないような、しかし、人と人の絡み合いの要をきっちりと果たしているのです。
この「抽象化」した世界に対する子どもたちの反応も様々です。すんなりと受け入れる子。時々川に入っては水遊びをしたり、じゃれあいしたりしながらやっていく子。もうそれ以後水に近づきたがらない子。遊びながらやる子が大半を占めることになりますが、そこで、親が乗り出してきます。「家庭の伝統」とでもいわんばかりに、スパルタ勉強をモットーとする親。そうすることには違和感を覚えながら、「将来」、「社会的現実」の厳しさを呪文のように唱えながら頑張る親。なかなかやろうとしない子を見て、全部子どもに任せてあるのにと「泣きながら」うったえる親。かと思うと、「全部先生に任せてあったのに」と失敗した後で怒りをぶっつける親。二言目には「子どもの自由意志」を口にする親。そして、また、「おまえは自由だ、自由だ」と言い続けた結果、自分の子どもとの間にすら「手におえないわがままな空間」ができてしまい、話し合うにも話し合えなくなっている親。そして、子どもとの意志の疎通がうまく行かなくなって「子どもにも自分で選ぶ意志があるのだ」と自分の行き場のなさを正当化しようとしている親。
しかし、意志の自由を与え、どんなに金をつぎ込もうとも、どのような学校に入れようとも人になるというこの「重み」が軽くなることはないし、また、人の歴史、すなわち、「物語の河」に参加することの難しさが軽減されることもないのです。もしそうすることによって、「重み」が軽くなり、「難しさ」が軽減されるはずだと「錯覚」なさっていらっしゃるようでしたら、それも結構「人間的」ですよねと自分を慰めて笑ってみてはとうでしょうか。そうすることによって変わるのは、その人のその後の「人生を歩む方法」が変わるだけであって、一日一日を「人として歩むことの難しさ」が変わってくれるわけではありません。私達はこの「物語の河」に分け入ることなしに、人にはなれないのです。一人だけで抜け出すことも、俺には、私にはそんなもの関係ないと決め込むわけにも行かないのです。人はどこを切り裂いても「物」にはならないのです。そこから飛び出してくるものは人であることのこの重みを背負った「物語」の部分なのです。私達はこの「物語」を背負わされて生まれてくるし、死においてもただ消滅するのではなく、異なった「物語」の中へと消えていくのです。
19世紀に活躍した作家のヘンリー・ジェイムスはこんなことを書き残したんです。「どんな人だって、10才代の頭脳に達したものですら、人生ってちょっとした茶番劇ではないなと疑い始めるし、上品な喜劇でもないなと疑い始める。そうではなくて、その者の根っこが根こそぎ引き抜かれたような空っぽの中の一番深い悲劇の深みから人生は花を咲かせ実を結んでいるのではないかと感じ始めるものだ。」人の物語の「重さ」や難しさはこの「空っぽ」の重さであり、これを理解することの難しさであることは確かです。英語で want と表現されている言葉は見事にこのことを表現していると思われるのです。英語の習いたてのころは、 want は「〜が欲しい」という意味で勉強しますが、進むにつれてそれが「欠乏」という名詞があるとこに出くわすのです。なぜ欲望を抱くかというと、自分の中に欠乏感を持つからだと。欠乏感の強さは欲望の強さに匹敵するのです。人は自分の中のこの欠乏に、または、空っぽに気づくことができ、そのほとんどを言葉という手段で物語を創って埋めながら生きているといってもいいでのです。欲望を感じない人は死んだ人だけなのでしょう。もうすでに自分の中で物語を創る力を失った人だけです。
しかし、また、空っぽであることを解るので、そこにいろいろなものを取り込むことができて成長していくことも事実ですよね。動物学者がよくいうように、もし動物の頭が食べることと生殖活動に少し距離を置くことが出来たら、彼らの生き方は一変するだろうと。そして、ロボット学者にとって、もっとも難しいロボットの動きは、そのロボットが何らかの意識を保ったままでボーット空を見つめている姿だと。それが最も人間に近い表現なのだそうです。だから、この空っぽの中には「事実」だけが詰まっているわけではないのです。目的性に合った事実だけが詰まっていたらロボットと何ら変わりない動きをするだろうし、生きることに忠実な現実だけがそこに詰まっていたら動物の行動と何ら変わらなくなるのです。人が人であるのはこの「空っぽ」に命を育んでいく力があるからです。そして、そこには人が人として遊べる空間があるからです。
当然ここからは欲望も生まれるのですが、もしある人が他者の物語に興味を示さなくなり、自分の欲望が作り出す物語にだけ興味を持ったとしたらと考えたら息の詰まる思いがしませんか。それとも背筋の寒くなる思いがしますか。そしたら、「ミダス王」の話と、「新しい機長」の話を思い出してください。息の詰まる思いや、背筋の寒さから少し開放されて、ちょっとした安らぎを得るのです。この空っぽでちょっとだけ休むのです。そしたら、また新しい命と力が沸いてくるのです。そうすることによって、人の物語の創り方の巧妙さや、奇妙さ、滑稽さがはっきりと見えてくるのです。人にとってこの空っぽは命がけの空っぽなのですから。
先のH. S. Sullivan先生は彼の長い間の人の研究と診療の結果こう書き記したのです。「その人に対する安全と満足への願いが、自分自身の安全と満足と同じ位の意義を持って現れるときのみ、愛するという状態は存在し得る。ちまたでその言葉がどのように用いられていようとも、私に知る限りにおいて、このときのみに愛はそこにあるといえる。」あなたの安全は私の安全。あなたの満足は私の満足。人はこの奇妙な物語を「私と世界との接点」、すなわち、「事件」の真っ只中に織り込むことで、自分たちの存続を保ってきた事実があるのです。そして、人にはこれは途方もなく「重い」ものです。なぜなら、人として生きていくことの意味の一番大切なものがこの接点にかかってくるからです。誰だって、こんなに重いものを四六時中背負っていたくはないはずです。しかし、この物語のない世界を想像できますか。この「接点」が人間的であるのか非人間的であるのかで、人を取り巻く世界も歴史も大きく変わるのです。そこに人として遊べる空間があるのか、それとも、すべてが「目的」と「生存のための現実」だけで埋まってしまっているのかでは、自分以外のものに対する態度が大きく変わるのです。
子どもたちに、どんなに重くてもこの「接点」に戻り、そこにまた自分たちの新たな命を吹き込んで欲しいと願っているのは私だけでしょうか。この接点を限りなく自分のもとに引き寄せる力をつけて欲しいと願っているのです。

 

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