冨吉 豊 の世界をあなたに・・・

マルビナ・シャンクリン・ハーラン

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マルビナ・シャンクリン・ハーラン

 ここ2・3週間、ニューヨークタイムズのウェークリーリビュー紙上では世界的規模の人種差別廃止運動の記事で持ちきりでした。ご存知ですか、民族を「肌の色」で区別するような分けかたをするようになったのは、長い人類史の中でまだ200年と経っていない事を。それ以前は、宗教やその部族の習慣、また、体の特徴でその民族や部族の違いを特出させて表していましたが、「肌の色」が人間性の優劣や文化の優劣に決定的な意味を持つ事はありませんでした。ところが、奴隷売買が盛んになる頃から、「肌の色が、民族の良し悪し」を決定付けるものになってきたのです。そして、この事はアメリカの誕生と発展の仕方に深く関わっているともいわれています。
 ある記事では、現在アフリカのタンザニアで超人気の「マイケルジャクソン」という名の肌を白くする錠剤がちまたでもてはやされている事を報じています。その錠剤を買えるほど裕福でない人達はコラゲという自家製の、灰汁とブリーチを混ぜ合わせたものを使っていてとても危険だと嘆いています。また、日本人はバナナだとよく言われますが、皮は黄色で、中身は白いと。近頃のチャパツや、ブロンドへの憧れはどうなんでしょうかね。
 そんな記事の中に、アメリカの南北戦争時代(1861〜1865)に26歳を迎えた白人女性の覚え書きの抜粋が載っていました。坂本竜馬より4年後にこの世に生を受けました。竜馬が激動の時代を生きたように、この女性も激動の時代を乗り越えました。現在では、The United States is と、主語を単数、一つの国として扱って表現してもなんの差し支えもありません。しかし、南北戦争以前は、The United States are として主語は複数形で表現されていて、一つのまとまりとして扱われてはいなかったのですよ。1776年に国家として独立はしていたのですが。この事を考えてもアメリカという国がいかに複雑かということが解かります。そして、この戦争で何が問われたのかもはっきりと見えてきますよね。
 現代の「正義感」を基点にして時代を眺めてみると、確かに彼女は虐待された側ではなくて、虐待を行った側にいました。しかし、歴史の歩みと個人の運命を考えるとき、竜馬が殺されたのと同じように、彼女がそれ以外の生き方を選べなかったのも事実かもしれません。歴史の墓場を掘り出して、正義の屍を暴くようなことをやっても、そこに実在した個人の心の中に宿した喜びや悲しみは救い出せないかもしれません。この女性は17歳で、後のアメリカを「法」で支えた最高裁裁判官の妻になりました。彼女の生きたアメリカにも、彼女の心に宿ったアメリカにも、そんな喜びや悲しみがあったようです。それは、屍と違って、触れるととても温かくなります。

 ここまで書き進んでいる最中に、ジャンボジェット機ががニューヨークの貿易センタービルに……。2001年9月11日(以下は、ニューヨークタイムズのウェークリーリビュー紙からの抜粋です): 
 Stuart T. Meltzer, 32歳. 最初のビルにジェットが突っ込んだ後、105階から妻への電話:「Honey, 何か恐ろしいことが起こっているよ。どうも助かりそうにない。愛しているよ。子供達をよろしく頼む。」
 Kenneth Van Auken. 自宅への電話:「愛しているよ。今世界貿易センターにいる。ビルが何かに激突されたみたいだ。外に出られるかどうか分からない。とっても愛しているよ。すぐに会えることを願っている。」
 Mark Hoglan  93便のジェットの中から母に向けて:「もし、もし、お母さん、マークだけど。飛行機が乗っ取られてるよ。爆弾を持っていると言っている3人の男達がいるんだ。…、I love you, I love you, I love you. 」
 Brian Sweeney, 38歳. 南タワーに突っ込んだ175便のジェット機の中から妻に当てて、留守電の中に「Hey, Jules, ブライアンだよ。今、飛行機で飛んでるところだけど、ハイジャックされて、どうも雲行き悪いよ。ちょっと君に知らせたかっただけなんだ、愛しているってことを。また会えることを願っているが、もし出来なかったら、人生を楽しんでくれ。出来るだけ素晴らしい人生を生きて欲しい。どんなことがあっても、愛しているということだけは伝えたかった。また会えるよな。」
 Ray Suarez.  貿易センターの最上階のレストランのシェフ、9時きっかりに彼女に向けて:「僕は大丈夫だよ。…、心配しなくていいよ。どんなことがあっても愛しているよ。愛しているよ。」そして、ぷつっと切れた。
 Thomas Burnett. 93便のジェットから妻に向けて:「みんな死ぬことだけは確実みたいだ。3人で今から何かやって見るつもりだ。愛しているよ、Honey.」
 Veronique Bowers, 26歳. ビルの火災の最中に、貿易センターから母に向けて:「お母さん、ビルは今火の海だよ。壁から煙がもくもくと出てて息が出来ない。…、お母さん、愛しているよ。さようなら。」
 Dan Lopez. 貿易センターから妻に向けて、留守電の中に:「リズ、おれだよ。ビルが撃たれた。78階までやって来ている。俺は大丈夫だ。しかし、人々を避難させるためにここに留まるつもりだ。じゃあまた後で。」
 Jeremy Glick. 93便のジェットの中から妻へ向けての電話の内容を妻が語る:「私たちは、愛してるって何千回も言い合いました、繰り返し、繰り返し、そして、それがかなり私たちを楽にしてくれました。…、夫は、エミー、私たちの娘ですが、を愛していると、どうか彼女をよろしく頼むと言いました。そして、彼は言ったんです。君の人生で、どのような決断をするのか分からないけど、君に幸せになってもらわないと困る、そして、君がどのような決断に至るとも、それを尊重するよ、と言いました。…、私にとって、それが一番の慰めになっています。」

 二つタワーは確かに倒れてしまいました。そして、テレビを通して、幸か不幸か歴史の証人とならなければならなかった人たちが世界中に沢山いました。あのジェットに乗り合 わせていた人達にも、センタービルの中にいた人たちにも、その人達を助けようとビルに突入した人たちにも、それぞれの心に宿した悲しみや喜びがあったのです。「愛しているよ、もういいよ」と誰かが言ってくれるまで、解けることのない悲しみ。心がはち切れそうになり「愛しているんだ、もういいかい」と唱えながら自分の殻を飛び出さない限り、抑えようにも抑えきれない喜びがあったはずです。「隠れん坊をしていたら、何一つとして誰にも託せない」これが生きていることの証です。
 あのジェット機を操縦していた人たちの心には何が宿っていたのでしょうか。あれだけの冷たい心を作り上げるのにどれだけの努力をしたのでしょうか。また、どれ程の深い悲しみを経験して、自分を「物」として扱えるまで心を枯渇させたのでしょうか。あのジェット機に乗るまで、あれだけ長い間、隠れん坊をさせたのはいったい何だったのでしょうか。「人は何のために生き、何のために死ぬのだろうか」という問いすらも生じないくらいに、彼らの心を凝結させたものはいったい何だったのでしょうか。また、あれに偉業だと喝采を贈れる心とは、いったいどのような喜びを伝えようとしているのでしょうか。ミサイルや銃弾で、彼らの心を開くことができるとはどうしても思われないのです。ものを言わぬミサイルが破壊できたものはあのタワーだったことは、十分に証明されています。
 「狂気」だとして抹殺してしまえば簡単ですが、二つのタワーが崩れ去っていく様子を脳裏から消し去ることは出来ません。歴史の証人になるとは忘れ去ることのできないものを心に宿しながら、時間を掛けて吟味し消化していくことなのでしょう。それを土台にして、「人は何のために生き、何のために死ぬのだろうか」と問える心に出会い、それを喜ぶ心を育てる以外に方法はないのかもしれません。そう問うことによって、人の心は揺れます。この揺れこそが、他者を同胞として受け入れる地盤を作り、そこを耕し、何かを共に育てていく準備をしてくれるはずです。

 1800年から2001年のアメリカの心のたびです。多くの矛盾と痛みを抱えながら、それにも負けないくらいの若さと夢を育んできた場所です。アメリカなくして民主主義は生まれなかったと断言できると言います。それでも、「民主主義」という言葉は、生まれたての頃は、日本の大正時代や昭和初期の頃の「共産主義」と同じくらいの違和感と驚異を人々に与えたとも言われています。
 マルナビ・ハーランの見たアメリカと、あのタワーに命中させるためにジェット機を操縦していた人の見たアメリカには、どのような決定的な違いがあったのでしょうか。一方は、矛盾と痛みを心に宿しながらその地に生きている人と、また、そこに生きていかなければならない人と、他方は、そこに住んでいる人々の矛盾と痛みを傍観している訪問者でしかなかったことは明らかです。
 (以下は、ニューヨークタイムズのウェークリーリビュー紙からの抜粋です。原文を読んでみたい人は、冨吉までお知らせ下さい。)

19世紀に生きた、鋭い洞察力と、いい視点を持った一人のアメリカ人
 最近出版された、最高裁裁判官、ジョン・マーシャル・ハーランの妻、マルビナ・シャンクリン・ハーラン(1839〜1916)の覚え書きによって、私たちは、一つの裕福な家族が遭遇しなければならなかった、当時のいろいろな大きな社会的出来事の背景を書き残してくれた鋭い観察記録者に出会えるのです。
 ハーラン裁判官は、かつては奴隷所有者であったけれども、あの悪評高いPlessy v. Ferguson決定として知られる「分離対等」的人種隔離政策を支持した最高裁からのたった一人の異端者になったのです。マルビナ・ハーランは17歳で結婚し、その後、彼らの結婚は54年間続きました。
 次のものは、1915年彼女が書いた「長い生活でのいくつかの覚え書き」からの抜粋です。ルース・バッジャー・ギンスバーグ裁判官は、4・5年前ハーラン裁判官の残した書類の中にあった、タイプで打たれた200ページにおよぶ原稿を読んで、この覚え書きの擁護推奨者になったのです。最高裁歴史課が最近の最高裁歴史ジャーナルにこの覚え書きを載せています。
リンダ・グリーンハウス

 1856年、奴隷所有者のケンタッキー人、ジョン・マーシャル・ハーランと結婚するについての、彼女の決断について。 
  私の親類一同みんな、南部における「特異状態」だと決め付けて、奴隷制に強く反対していました。さらに、私のとてもお気に入りの人だった母方の叔父などは、生粋の奴隷廃止論者で、今にして思うと、(私の夫を知るようになる前は)私が南部人と結婚して南部に住むくらいだったら死んでしまった方がいいのではないかと考えていたようでした。
  …今このように、私の結婚が私を取り巻く環境に持ち込むべくして持ち込んだ大きな変化について思いを巡らせてみると、私の新しいケッタッキーの家に向けて出発するとき、母が私に別れの助言として与えてくれた知恵に今更ながら感銘を受けるのです。彼女の助言は、助言というよりは実際は命令に近いものでした。彼女の言葉は、大体は次のようなものだったと覚えています。「あなたは、この男の人と結婚したいと思うほど、この人を愛しているのだから、覚えておきなさい。いま、彼の家は、あなたの家になるのですよ;彼の人々は、あなたの人々になり、彼の興味は、あなたの興味になるのですよ――あなたはそれ以外何も持ってはなりませんよ。」

 1861年、彼女の夫の北軍参加の決断のおりに。
  その夜、妻と幼いものたちへの義務の念と、国への義務の念が彼の内で辛くせめぎあっていて、彼は夜明けまでずっと床を行ったり来たり歩きどうしだった。彼は私のベッドの所に来て、私の横に座り、どちらを選ぶかはすべて私に任せると言ったのです。彼の果たすべきまず一番最初の義務は私と子供達に対するものだと感じているとも言いました。そこで、私は、もしあなたが妻も子どもも持っていなかったとしたらどうなさるつもりですかと彼に尋ねました。彼は、「自分の国の助けになるために行きたい」と即座に情熱を込めて答えたのです。
  私は彼の心がどんな様子であるか知っていたし、そして、国がもっとも必要としている時に、自分自身が責任逃れをしてしまっていると感じる事がどんなに彼を不幸にするかも知っていました。それゆえに、ありったけの勇気を振り絞って、「妻も子どもも持っていなかったなら、あなたならこう行動するであろうと思うように行動して下さい。あなたとあなたの国に対する義務のあいだに私は立ち入る事はできません。またそのようにして、幸せになれるとも思いません」と私は言いました。

 裁判官の妻としての勤めに課された社会的要求について。
  長年、,暗黙の了解として、月曜日の午後は、最高裁裁判官の妻の「在宅」の日として特別に設けられてきていました。ワシントンでの最初の年…私たちは二百人とか三百人とかの訪問客を頻繁に受けていました。
  そんな折、大抵の家では、サラダや、甘さったっぷりのケーキなどのあらゆる珍味がテーブルの上に並んでいるのが常でした。また、もし娘がいて(私の場合もそうであったけれども)彼女が音楽を修めていたとしたら、訪問客をもてなす役割を買って出るようにと呼び出されるのが常でした。時々、ダンスもこのような午後のもてなしを飾るものでした。タンゴなどではなくて、もっと以前の優雅で威厳のあるワルツでした。

 1903年、テネシー州出身の連邦裁判官、ホーレイス・H・ラートンとのデイナーの席で。
  多分、12人くらいの人がテーブルにいたと思います。そして、夫の気分は最高に高揚していました。そして、市民戦争(南北戦争)での彼のいくつかの経験談を始めました。
  南部連邦軍の不敵な急襲屋のジョン・モーガンを追って、彼の部隊が行ったテネシー州とケンタッキー州をまたいだ追跡で、急行軍だったが、心踊る行軍の事を話し始めたのです。話の途中で、モーガン隊の後方守備隊がテネシー州のハーツビル近くの小さな川を渡りきったところで、北軍追跡部隊の先行守備隊がもう少しのところで彼らに追いつき、対岸からそれらの兵士に向かって発砲をしたところに差し掛かりました。
  突然、ラートン裁判官が…彼のナイフとフォークを下に置き、彼の椅子に深々ともたれ掛かり、彼の顔は驚きと不思議さを隠し切れない様子で輝き、興奮した様子で私の夫に叫びました、「何だって、ハーラン、忘れもしないあの忌まわしい日に、俺を射ち殺そうとしていたのがおまえだって言っているのかい。」
  まったく同じように驚いた様子で、…「ラートン、まさか、きみが、モーガンと一緒にあの奇襲に加わっていたなんていわないよな。そうかなるほど、だから、彼に追いつけなかったんだ。今やっとその理由が分かったよ。きみをあの日撃たなかったことを神に感謝するよ。」
  そこにいた人たちはみんな、劇的な話の結果に興奮し、あの兄弟姉妹殺戦争の傷が遅くなってしまったけれども完全に癒された事を新たに確認していました。なぜなら、そこには、以前は敵どうしであった二人の男が、まったく一つに統一された国の同胞市民として、合衆国連邦裁判所で裁判官として一緒に仕えているからでした。市民戦争なんて全くなかったかのようでした。

 ベニスで、彼女の最初のイタリア旅行について。
  馬のひずめの音を聞いたことのないあの素敵な町の印象を述べる試みなどできようもありません。ましてや、ベニスの栄光と誇りに包まれた比類なき芸術作品について語れるなどとはとうてい考えられません。
  ベニスの思い出で特に心に残っているものは、テイチアーノ[1477〜1576]のAssumption of the Virgin Maryです。…まるでそれが与える驚嘆の念を強調するかのように、ガイドはわきの通路をとおり、おごそかな沈黙のままあの永劫の普遍的母性のシンボルの前に私たちを導いて行きました。その絵はあまりにも正確に私が心に描いていたものと同じだったので、一瞬以前どこかで見たのではないかと感じたぐらいでした。…同じ事を、ウェストミンスター・アビーへの最初の訪問のときにも抱きました。まるで、アビーのすぐ隣で育ったかのように感じました。時々、私たちみんなこのような奇妙な、以前経験したことを再び経験しているかのような感覚に陥る事があるのではないかと思います。そして、時々、これが永遠の命を生きるという意味なのではないだろうかを思う時があります。

 1904年、その当時連邦裁判官で、後に大統領[27代(1857―1930)]、そして、[第10代]最高裁判所長官をやった、ウイリアム・ハワード・タフトを仲間に過ごした陽気な夏の夜について。
  夜の催しの一つにダンスがありました。とても驚いた事に、タフト裁判官が私に彼のダンスのパートナーとして参加してくれるように申し込んできました。私は、その方面で彼がいかに素晴らしいかという事を聞いていたので、「まあ、とても私などは。おまけに、もう何年も踊った事がないんですよ。あなたが興味を覚えられるような事なんてなにもありませんわ。パートナーとして踊るなんてとてもできそうにありませんわ。」と私は言いました。
  「でも、まあ、ヴァージニアリール[8〜16人位で対列を組んで踊るダンス]だけですから。」と彼は答えました。見回してみると、夫がタフト婦人に導かれて列の先頭を取っていました。「もし彼にできるんだったら、私にだって」と心に思って考え直し、すぐにタフト氏と列の最後部に加わりました。
  「40歳以下は誰もリールを踊る資格はない」というのが鉄則でした。喜んで40歳以上だと白状したがっていた比較的少数の人々を尻目に、私たちダンスに参加した者達は、とても楽しい時を過ごしました。私たち、年をとった少年や少女が青春を取り戻している間、みんな憧れのまなざしで眺めていました。

 1909年12月23日、彼女の53年目の結婚記念日に、彼女の結婚記念写真に自分でつづった詩を添えて、5人の子どもの各々にプレゼントをしました。

  ほんの50と3年前ですよ、
あの輝くような12月の夜、
この若き男と少女が確かに愛を誓い、
そして、生涯の契りが堅く結ばれたのは。

あなたたち子供たちは、周りを眺めながら、
ときどき、道はわびしいものだと考えていた様だったけど、
しかし、私たち二人にとって、振り返ってみても、
いまだに甘く、短く、愉快なものだと思う。

ならば、私のかわいい子供達よ、歩み続けなさい、
そして、私たちが逝った後、思い出してごらんなさい
この写真を、あの若く、甘い12月に
私たちがどんなに素敵だったかを見せてくれるから。

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