■スリッパ
我が家のもう一人の住人
愛しさは花の色に似て、
驕るでもなく憂えるでもなく
花に誘い、花をときめかせ
そして、実を抱き、実の中に消え去る。
生まれてこのかた、こんなに生き生きとしたスリッパに出会ったことがあるだろうか。こんなにも我が物顔で部屋という部屋に入り込み、ゆっくりとくつろいでいるスリッパも珍しいだろう。置き去りにされていながら、その姿には寂しさなんて微塵も感じられない。ある時は「り」になり、また、ある時は「こ」になりしながらゆっくりとくつろいでいるところに出会うと、つい笑みがこぼれてきてしまう。二人とも独立心旺盛で、それぞれが自分の個性を謳歌している。お互いが面と向き合っていたり、そっぽを向いたり、たまには仲良く並んだり。
どこかの待合室とかで整理整頓されて人を迎えようと躍起になっているスリッパなどを見ると確かに心地よさを感じるけれど、「生」の躍動を感じない。手慣れた様子で、どうぞおみ足をお入れ下さいと言わんばかりだ。生まれてこの方、自分の自由なんてまるで味わったことがないような窮屈さを押しつけられたような気になってしまう。ましてや、スリッパのラックにくくりつけられたものなどには哀れみさえ覚えてくる。
その点、我が家のスリッパは生きている。玄関を入ると、片方がしっかりと迎えてくれるが、もう一方はどこでどのように跳ねたのか一歩の歩幅ではとうてい跳べない距離にどっかと裏返しになって喜んでいたりする。悲しんでいるどころか、嬉しくて嬉しくて笑いこけながらもんどり打ってお腹を出したという様子である。迎えた方も、離れたのが寂しいという様子はなく、ここの住人を迎えるくらいなら私一人でも充分という堂々たる態度である。
ある時など、片方は食卓のテーブルの、足首の引き締まった一本の足に寄り添い、今二人で愛を語り合っているのだから私たちをそっとしておいて、と言わんばかりにじゃれあっている。もう片方はどうしたのだろうかと心配になって探していると、これまた台所の片隅で横になりうたた寝をしている。
まず、二人が行儀良くそろっていることが奇異に感じるのだ。何か下心でもあるのかなと勘ぐってしまう。それともどこか体の具合でも悪いのかなと心配になってきてしまう始末だ。まてよ、そうか今日は大臣クラスの客がうちに来るのに違いないと考えざるを得ない時だってある。
一番の傑作は、六畳間の畳の部屋の真ん中で二人並んでいたのには驚いた。どのような状況でこのような結果になったのか。時には畳の部屋にだって隅っこに寝ていたりするのでそんなに驚くようなことではないが、この時ばかりは驚いた。二、三日前に脱ぎ捨てられたと言う様子ではなくて、つい今し方まで動いていた温もりが感じられる様子に驚いたのだ。今にも動き出しそうな、今にも笑い出しそうな素振りに我を忘れて見入ってしまった。「よ、どうしてる」って声でも掛けたくなってくる。
そこである結論に達したのだ。我が家には目には見えないがもう一人住人が我々の家族と一緒に住んでいると。そうすると、このスリッパの躍動感と生命力の意味がしっくりとくるのだ。
目には見えないがとても愛らしく、お茶目で、このスリッパの大きさからして女の子か女の人に違いないのだ。このスリッパがここまでほって置かれても、悲しむ様子もないところから想像すると、この持ち主はよほど心の豊かな人なのだろう。細やかさよりも、開けっぴろげな明るさとおおらかさを持った足に違いないのだ。そうでなかったなら、どうしてあそこまでスリッパが笑えようか。
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